ガスミュージアム 台所についてマニアする
昨年に行ったガスミュージアムについてまとめます。
ガスミュージアムは小平にある東京ガスによるミュージアムです。
生活の中に必要なものとして常にかかわってきたガスについての展示をしています。
以下はガスミュージアムにていただいた資料パンフレットからとったまとめになります。
時間をかけて徐々に自分のわからないところや、気になった部分を掘り下げていけたらと思います。
「台所」の語源
平安時代 貴族の家にあった「台盤所」から来ています。この場所で台盤を並べて料理の盛り付けをしたことからこう呼ばれました。この当時が指すものは調理をするところではなく、配膳をするところでした。ちょっとややこしくなりますが、料理をする場所として厨(くりや)というところもありました。
また、現代で使われる「女房」という言葉は、ここで働く女性のことを女房と呼んだところから来ています。
室町時代になると、料理を作る場所の厨と盛る場所の台盤所をまとめて台盤所、略して台所と呼ぶようになります。
台所シーンにおける「水」と「炎」の時代変遷
飲料水の変遷
飲料水は川や泉、井戸などから水を汲み、桶や甕などにためて使い、洗い物や調理は家の近くの清流などで行いました。
江戸後期、木製の流し台が登場。
流し台は高さも低く、かがんだ姿勢で作業を行いました。
明治31年、東京では洋式改良水道が敷設されました。これによって共同で水道の共用栓を設置したり、屋内に専用の栓が設置できるようになりました。やがて各戸に水道がひかれるようになると、衛生的かつ家事労働が軽減され、水をためる桶や甕も必要なくなりました。こうして台所の場所や洋式も変化していきます。
昭和30年後半、瞬間湯沸かし器が広く普及します。これによってお湯が簡単にわくようになりました。
炎の変遷
明治中頃まで、家で炎を使う場所と言えば「竈」と「囲炉裏」でした。
「竈」は台所に置かれました。煮炊きの場として使われます。
囲炉裏は炊事や暖房の役割を持っており、一家が団らんする場でもありました。
このような薪炭と煙と共に過ごす生活スタイルは、明治30年代に入ると、「都市ガス」という新しい燃料によって大きく変わっていきます。
しかし、ガスもその後登場した「電気」によって次第に姿を消していきます。
第二次世界大戦後、石油燃料、プロパンガスなどが登場しました。
高度成長期以降、「ガス」「電気」が炊事における熱源として定着し、その頃にはもう台所から薪炭は消えていきました。
ガスの炎
ガスは、はじめ「明かり」として使われ始めました。
明治30年代、煮炊きなどの「温めるもの」としての用途を広げていきます。
当初は海外から輸入した器具をそのまま販売しました。しかし。一般の人にはこれはなじみにくく、非常に高価であったため、なかなか普及しませんでした。
明治35年(1902)、東京ガスにより、国内最初のガス器具特許品『炊飯用ガスかまど』が発明されました。やがてこれをはじめとして様々な国産ガス器具が開発され、ついに日本で広く一般に普及していきました。
明治36年(1093)『食道楽』によってガス化台所(西洋化台所)が紹介され、これは台所のガス化を後押ししました。
『食道楽』とは
村井弦斎著の『食道楽』は、報知新聞によって一年間連載されたもので、ヒロインのお登和さんが料理を作り、蘊蓄を語るという小説の形をとりながら、欧米の進んだ文明社会における台所や食生活を紹介しました。これが大人気を博し単行本化され、それが大ベストセラーとなり旋風を巻き起こしました。内容には和洋中華、シチューやカキフライ、ワッフル肉まんオムライス ケチャップライス、プリン、ロールケーキなどから、苺ライスや腎臓料理などまでの多種多様の料理が紹介されるました、とても夢がありますね。✨
そして、この『食道楽』の中で、西洋の「ガス化台所」が紹介されたのです。ここでは、日本のものと比較することで、日本の台所の不合理、旧弊を批判しました。
西洋讃美の風潮がある時代とも言えるので、それもまたこの小説の日本の台所批判の背景とも言えます。
その『食道楽』の中で大隈重信邸の台所の様子が掲載されたことがあります。
大隈重信邸では、イギリスから「ガスストーブ」を輸入し、台所には前年に発売して間もなかった「ガスかまど」も完備されていました。
重信邸宅のガスストーブは当時の金額で250円(現400万円)しました。また台所をガス化するために、わざわざ早稲田の自宅までガス管を引きました。
ガス台所は、以前の囲炉裏やかまどとは異なり、コックをひねれば簡単に火が使え、煮炊きも立った状態で作業ができました。
そして燃料はガスなので、家に燃料を貯蔵する必要がなく、鍋釜の底が煤で汚れることもありませんでした。
このような台所は西洋的、近代的なものとして人々に認識されていったのです。
『食道楽』の中では、「台所は生活と健康に大事な中心的な存在として考えるべきで、明るく清潔でなければならぬ」と主張され、西洋料理とその器具、台所は優れているという考えを定着させました。
大隈邸のガスで煮炊きをする台所の姿は、本のベストセラーと都のに、人々へ「台所のガス化」の定着を促進させました。当時の上流階級の人々は次々と海外からガス器具を輸入し、台所をガス化をしていきました。
「電気」と「ガス」の競争
ー明かりを灯すものとして、または物を温めるものとして。
明治30年代(1900年代)ガスの炎は電灯との照明における競争の中で、
新たな利用先として「熱源」の用途を開拓し始め、市場を広げていきました。
一方、電気でも大正初めに『タングステン電球』が量産されると、電力消費がそれまでの約三分の一になります。
(タングステン電球とは、白熱電球の一つで、電球の中の鉄のような線の光る部分「フィラメント」にタングステンを使ったものです。
タングステンをフィラメントの素材に使う以前は、竹とか木綿とかプラチナとかを試行錯誤しながら試している、そんな時代でした。
とにかく、タングステン電球の発明によって電力の利用に余剰ができました。
その新たな利用先として「ニクロム線」を使った熱源の用途に進出します。
(ニクロム線とは、ニッケルとクロムを主とした合金です。冗談みたいな名前ですね
電気抵抗が大きいことが特徴で、その抵抗の大きさが発熱を呼びます。こうして電気ストーブなどのようにして物を温めるものとして使われるようになります。
はじめは海外から器具を購入していました。
大正中期程になると、国産も登場しました。こうして熱源としての用途をめぐって再びガスと電気の戦いが始まります。
大正末期 ガス七輪 電気七輪 ガス竈 に対し、電気釜などが登場します。
昭和の初めにはこの戦いがピークを迎えましたが、戦争によってこの戦いはかき消されてしまいます。
ガス器具、家電
台所のガス器具
ガス器具ははじめは海外から輸入していました。
しかし、輸入ものは日本人には使いづらく高価であったため広くは普及しませんでした。一般の人にも使ってもらおうと、日本人にあった比較的安価な製品が作られるようになります。
~ガス器具いろいろ~
炊飯器
明治35年(1902)にガスの炎でご飯を炊く、「ガス竈」が日本で発明されます。丸底のお釜を、中に火口を仕込んだ鉄製の筒に落とし込む形をしていました。
昭和6年(1957)には、かまど内の圧力を感知して自動的に炎の大きさを調節する、「文化自動炊飯器」が登場します。
昭和32年(1957)になって、現在のような一体型炊飯器の登場しました。
コンロ
はじめはすべて輸入品でした。
明治の終わりには、一口コンロが日本で生産されるようになっていました。
西洋のコンロは、底が平らな西洋のやかんに合わせて設計されていたので、底が丸かった日本のやかんや鍋は座りが悪く、使いづらいものでした。
そこで国産品は内側に向かってくぼみ、安定性を上げることで使いやすくなりました。
二口以上のコンロやオーブン付きの製品に関しては、明治の終わりにコピー品が登場しました、しかしこれは短命に終わります。
昭和のはじめになると国内メーカーによる製品が改めて登場します。
湯沸かし器
明治35年(1902)、広告チラシに大型湯沸かし器が、明治37年(1904)には洗面用の小型の湯沸かし器が登場しています。
大正5年(1914)、輸入品をコピーした国産品が登場しましたが、実際に広く使われるようになったのは昭和5年(1930)「YOY121號湯沸器」などが発売されてからのことでした。
冷蔵庫
明治36年(1903)第五回勧業博覧会にて、氷を使って冷すタイプの氷冷蔵庫が登場しました。この製品は、内部に氷の塊を入れて冷やす構造でした。
昭和2年(1927)には電気冷蔵庫が輸入されるようになりました。
昭和5年(1930)になって、ついに国産品の電気冷蔵庫が登場します。
しかし、この間、昭和3年(1928)においてガス冷蔵庫が初めて輸入されています。
ガス冷蔵庫の原理は、気化熱を使います、アンモニア溶液を気化させるときに、ガスの炎で熱していました。
モーターを使用しないため、音のない静かな点が特長でした。しかし、戦前、このようなガス冷蔵庫は電気以上に珍しいものでした。
現在におけるガス器具
現在台所で使われている様々なガス器具には、自動点火装置や不完全燃焼防止装置、てんぷら油過熱防止機能などの、便利で安全に使える機能が搭載されています。
また、器具の種類も。炊飯器、コンロのほかに、ガスオーブンレンジや食洗器など、さまざまな便利器具が発明され、現代の台所を支えています。
台所からキッチンへ
システムキッチン
大正中頃になると、ガス会社は器具だけでなく、台所調理システム全体を販売するようになります。
これは「調理台」と呼ばれます。
ガス会社が販売を手掛けたことによって、流しから調理スペース、かまどと、一連のガス器具が機能的でまとまりのあるものになりました。
大正9年(1920)ガス会社のカタログには、ガス器具が組み込まれた調理台が登場しており、台所の改良工事まで相談に応じるようになりました。
昭和6年(1931)に掲載されたカタログには、流しの氷冷蔵庫を備え、ガス七輪とガス竈が設置できる「一合炊事台」。または蚊帳などがくみこまれた「三号タイル張り調理台」など、さまざまな形の調理台が登場します。
公団住宅、そしてダイニングキッチンへ
昭和26年(1951)にダイニングキッチンが登場します。これは集合住宅において食寝分離を狙い、広い台所で食事をするということを提案するものでした。この様式が定着するきっかけは、昭和31年(1956)ステンレスの流しとテーブルが備え付けられた、公団住宅の登場が背景にありました。
ダイニングキッチンスタイルは当時の人々にとって従来の「茶の間」が食事兼台所になり、ちゃぶ台返しが椅子とテーブルに代わり、主婦が生活の中心地になることも意味しました。
このダイニングキッチンでの生活を営むのに欠かせないものこそが、ステンレスの流し台と、食事用のテーブルでした。
素材も木製のものから、ステンレス製の高さ80センチのものが公団住宅の流し台に使用されました。
また、当時の人々には椅子とテーブルの生活はなじみの無いものだったので、初期の公団住宅には初めから椅子とテーブルが備え付けられているものもありました。
システムキッチン
明治中頃、ドイツを中心として発達しました。
昭和の初めには欧米全域に普及しました。
昭和40年代後半になり、ようやく日本にてシステムキッチンは登場しました。
その後は急速に普及し、台所が室内のインテリアスペースとしてとらえられるようになっていきます。
多くの商品が打ち出されている昭和35年に何があったのか?!
写真を添えること
それぞれの最初の発明された会社や商品を調べたい
しくみをもっと詳しく
キッチン今昔の部屋の構造の違い
これらを調整していこうと思います
以上!
人生は予想外の連続であることをこれからも忘れないでいたい
ちょっとつづらせてくださいね。
中国に留学していたけどコロナの件で一月末に旅行のカバン一つで日本に帰国してもう数か月ですね
今はウィーチャットとネットを使った授業をやっています。
中国留学をしていた私の知り合いの知っている範囲は全員、日本に帰国しています。
そのなかには下学期の留学を取り消した人もいれば、留学先の大学の判断で留学が終了してしまった人もいます。また、日本の大学側が下学期の留学を中止にしたり、ヨーロッパに留学していた人に強制帰国を命じて帰ってきて留学を終了せざるを得なくなった人もいます。
留学が終わってないとはいえ、中国での授業は本科の講義で、クラスメイトやその他の生活を留学の中心においていた人から、日本での生活を基盤としたネット授業という現状に意義を失ってしまいやきもきした気持ちで日々ネット授業を聴講している人もいます。
私は一年間ゆっくり語学に集中したいということから北京外国語大学に行って、中国語の授業を受けました。
日本にいてこの状況の中でも先生は授業の録音を決まった曜日に送ってくれるし、宿題も丁寧に見てくれるし、教科書を元に授業ができて、こうして語学の勉強を続けることができます。
私の日本の大学が留学を中止にすることはなかったし、中国側に大学も引き続き勉強させてくれるし、授業として割く時間が語学であることが本当にありがたいことだな、と本当に思う
不謹慎かもしれないし、留学がうまく回っていないほかの人たちに対して失礼かもしれないけど、私は本当に自分の現状に対してよかったなと思うことが多いし、幸運だと思うことが多い。
自宅待機と言われてすぐに待機できる立場であること、そして自宅で待機しても語学ができるということ、なによりも、母も父もむりやり帰ってきた娘にとても協力的でいてくれること。感謝しかない。
母が、中国語を話すことを忘れないようにと、ネットによる中国語会話を始めさせてくれた。
これのおかげでより自然でよりきれいな中国語を聴くことができるし、より中国語を話す機会ができたし、先生も一対一で私の文法を直してくれるので、とても助かっている。
中国でできたこともある一方で、中国にいたときできなかった勉強ができる。
四人部屋で教科書を声に出す練習の習慣が執着しなかったけど、今は自分の気の向くまで中国語を発声している。また、もっと学習したかった単語を勉強したり、いろんなことを調べたり、歴史を勉強しなおしたり、日本でしかできないこともたくさんある。
前学期に留学で基礎の力がついたからできることもたくさんあるし、そういう意味では二月始まりの留学でなくてよかったともここで思った。
私はこの状況の中での自分の現状には多くの幸いがあるなと思う。この現状に感謝したいことがたくさんある。
でもこの考えは、自分がいろんな現状にいる人たちとあまりにも近くにいるため、きっとこれからも心の中までとどめておくのだと思う。
だからこうして私はこの思いはこの場を借りて書き留めておく。
もちろん、中国にできることなら戻りたいと思うし、やりきれない気持ちになることもある、まだ行きたい場所もあるし、また食べたいものもあるし、やりたいこともある。
中国のタピオカが飲みたいし建物博物館に行きたいし、週末に故宮に行きたいし、シルクロードにも行きたい
たとえこの留学が七月まで日本で終わってしまっても受け入れたいと思う。
のんきだと思うだろうか。のんきでいたいと思う。
人生はうまくいくことの方が少ないから。だったら予想外の現状をうまく切り抜けることを考えていける人でいたいと思う。人生は予想外の連続であることをこれからも忘れないでいたい。
中国は幸い日本からとんでもなく近い。またいつでもいける。今回留学にいけて本当に良かった。また終わってないけど、でもこれで未来への足掛かりがついた。今後の人生でまたいつでも中国に行きやすくなった。
いつだって行ってやるぞ!おばあちゃんになってもまた行ってやるぞ~!
その時はどこへ行こうか!お金ためないと!笑
今からここは中国史です⑤後漢と漢文化
新と後漢やるです。
午前中かけて書いていたのに気づいたら後半部分消えてたから書き直した。どういうこと!
前漢を振り返ると、劉邦が勝ち取って誕生した漢王朝。高祖と名乗り秦の反省を生かした王朝となった。
景帝の時代に呉楚七国の乱がおきるも何とか王朝を保つ。
七代武帝の時代に最盛期を迎えた!めちゃくちゃ外征をして中国の歴史にも東西南北の周囲の存在が垣間見えるようになってきました✨
しかし外征の反動でこれまた縮小へと向かいます。
奴隷や小作人の悪用が増え、哀帝はこれを立て直そうとするも政策がうまくはまらず。
宦官や外戚の台頭が見え始め、前漢は外戚の一人である王莽によって倒され、一瞬新という王朝ができます。
紀元前も抜けてA.D、紀元後の時代に突入しましたね。
新王朝の建国時期は紀元後8~23年。15年という短さです。大正時代と同じやね。
王莽さん、奴隷の売買を禁じ、官制や貨幣制度を改め、商工業を統制するなどした。
一見頑張ってる感じするけど、現実は周の時代を理想とした時代遅れの復古主義だったようで、かなりの反発があった。高句麗や匈奴などの周りの方々も「こんなの違う」と思ったのか次々と離反した。
あっという間に赤眉の乱がおきて都長安は陥落。王莽は殺されて新は滅亡した。あまり政治自体に私欲の混じった感じの印象を受けなかったのでなんかかわいそうな気がしなくもない。
ここから後漢の時代が始まる。(25~220年)心機一転である。
王莽を殺した後も続きやや混沌とし始めていた赤眉の乱を鎮圧させ、トップに立ったのは劉秀(りゅうしゅう)こと光武帝。
都はちょっと動いて洛陽へ。
内政に力を注ぎ、対外政策は消極的だった。前漢武帝の外征ガンガン政策はやはりちょっと反省ポイントだったのかな
光武帝は、武帝が、前漢のときのすごい大遠征したあの武帝さんが官学にした儒教を再び押し上げた。
光武帝によって儒教は保護奨励され、ほかの思想を圧倒しただけでなく、日常の規範として定着した。儒教の国教化である!
こうして国教化された儒教は、秦の時代に法家をメインにしていたことから行われた焚書坑儒、あのときに燃やされた古書の復元や経典の解釈に力を入れるようになった。これらは訓詁学として馬融や鄭玄によって大成された!
儒教国教化の一方で陰陽五行の思想も広く信頼を得ていた。
ほかにも、許慎は古典を読むために必要な説文解字という字典に当たるものを作った。
文字体も秦代の篆書から変わり隷書という、書くときにより便利な字体が使われるようになった。
基本的に内政に力を入れていた光武帝だったが、日本とのかかわりの記録がある!
倭国日本にあの有名な金の印鑑、あの印鑑の裏に「漢委奴国王」と書いてあるあれ、あれを送ったまさにその人が光武帝なのだ。
今まで朝鮮の楽浪郡までしか行き来してなかった日本人だが、後漢の初め頃に洛陽へと訪問し、この印鑑をもらった。
そしてさらに何年か経ち、皇帝も後代にわたっていくうちに、内政の立て直しがいい感じになってきたら、対外政策に再び力を入れ始めた!
この時に、西へと西へとついにヨーロッパまで足を運ぶことになる。わくわくする。
時代は和帝(位88~105)の時、班超という人物が西域都護府に任命された。
班超は匈奴をナチュラルに討ち、西の方にちょっかいを出すようになる。
A.D100年を迎えるころにはカスピ海より東の国を50国も服属させていた。すごい。こうして西の西の情報が耳に入るようになったことで、向こうにはローマ皇帝なるものが存在するらしい。ということがわかるようになる。宇宙を開拓しているかのような話だ。班超も楽しかったんじゃないかな。
ところでこの班超をはじめとした班一族、ほかにも活躍をしていて結構すごい。
班超のお兄さん班固と、妹の班昭は『漢書』という歴史書を編纂したことで有名。
漢の時代を勉強すると、班という人物が三人も出てくるし名前そのものもなんか特徴的だなあと思う。
そして97年に、班超の部下である甘英を大秦国、つまるローマ帝国に派遣した!ついに東西の顔を合わせる歴史的瞬間か、と思ったらそうはならなかった。甘英は何をどうしてか現在のイラン西南部に当たる条支国というところに来てしまったため引き返して帰国。なにやってんねん!ところがまたまた、今度はローマ帝国側から、大秦王安敦の、つまりマルクスアウレリウスアントニウスの使いである、と名乗る者がベトナム経由で来てくれた!
しかしこの使い、手土産はローマのものは一切なく、象牙とかベトナムのものばっかだし、正直本物なのか最後まで分からなかった。もしかしたら「我ローマの使いぞ?」 とか言って自称したものだったのではとも言われている。とにかくこうして東西も横にダイナミックに交流をするあと一歩まで来ていた、というのがポイントである。
また美術史として、絹織物や漆器、銅鏡などが発達した。
シルクロードの始まりである!
また、これまで書き物といえば、木簡や竹簡などが使用されていて、重いし使いづらいししかも安く手に入らない、というザ・不便な道具だった。そんな時、後漢の和帝の時代88~105年の時、宦官の蔡倫は木の皮やぼろ布やらを使って紙を作る方法を見出すことに成功、つまり製紙法を開発した、と言われている。
この発明は文化の発達に非常に重要な役割を果たした!今でいうと、紙からインターネットでこうして文字を伝えられるようになった、ということも一つの歴史の流れなのかな?なんて思ったりして。この製紙法は、のちに紙漉き職人が捕虜としてイスラム圏に連れていかれたことをきっかけにイスラム圏を経由してヨーロッパに広まり、世界の文化史に大きな貢献をしたというのはまた別のお話。751年のお話。
さて、このように交易も広く壮大な経歴を持つ後漢王朝だったが、話題は衰退の方に入らなくてはいけない、時期は二世紀、このころには運が向かず皇帝は幼い皇帝が続いた、それによって周りの補佐の権力が必然的に強くなる。こうして外戚や宦官が実権を握るようになり、この兆候に危機を感じた儒学者や官僚たちはこの状況に反対の意を示したところ、弾圧を受けるなどの事件もあった。これは党錮の禁という。
また、農村では豪族の力が強くなっていた。184年には黄巾の乱がおきる。黄巾の乱とは太平道という、河北中心に広まった宗教結社を広めた張角が指導した反乱である。黄色の布を頭に巻いて反乱をおこしたことからこう呼ばれるようになった。
ちなみにこのころいろんな宗教結社が生まれ始めていて、ほかにも張陵と張魯が指導した五斗米道がある。五斗米道は四川を中心に広まった。
政府はこの乱の鎮圧に苦戦した。ようやく収まったころには他の地域の農民がその騒動に呼応し、反乱はすでに全国各地に広まっていたのでもう手がつけられなかった。
後漢政府の権力は完全に失われ、いろいろとめちゃくちゃになり、時代は群雄割拠へ。そして最後は220年に、曹操の子である曹丕に後漢は滅ぼされることになる。
時代はかの有名な三国志の時代へ!でも世界史上三国志はそれほど取り上げられない!私も残念ながら詳しくはない!まあでもやっていこうと思う!
以上!
今からここは中国史です④漢王朝
漢王朝やります。
漢王朝は、前漢ー新ー後漢、と、途中「ん?」って感じで別の王朝が差し込んでワンクッション置きます。だから前漢と後漢に分けて考えられることが多いみたいです。
そして、前漢のイメージなんですが、
「武帝、領土拡張ぶりがえぐい」
でも他の地域とのかかわりあいを持つことは、文化の交流の足掛かりになるので、美術作品とかを眺めるのが好きな身としてはとてもおいしい!(⌒∇⌒)
ちょっと前の、秦の滅亡から入ります。
七雄の中から飛びぬけて勢力を持ち、夢の統一を果たした秦の政さんだったが、その秦の統一王朝は、勢いで統一と中央集権をしすぎた反動か、二代目に入った途端に倒されてしまいました。政治を執り行うって難しい
さて、逆ギレ反乱の陳勝呉広の乱がおこり、その勢いの中最後まで残ったのは
貴族出身男の中の男項羽と庶民出身田舎ヤンキーの劉邦という性格ほぼ真逆のお二人。
この人達の話は結構有名なものが多いし、その性格の差がまた面白い。
項羽は名門育ちで若いころから野心と才能に満ち溢れた血気盛んな男、しかし一方で部下を信用しないし、報酬を出し惜しむ一面もあった。要するに一番信用できるのは自分だったのかな、ピリピリしたエリートっぽい人物像を想像させる。そして投降した捕虜は生き埋めにした。こわいって。そんなストレスたまってたの?
一方の劉邦は農民の子。若いころは野心も覇気もなく毎日飲んだくれていた。おもしろっ。張良、簫何しょうか、韓信といった優秀な部下をめっちゃ信用していたので、見事に部下の能力を生かすことに成功。
いい感じにダメ男っぽい感じが良い。
高校時代にこの二人の話にはまりテスト期間は絵を描いていたものだ。私の高校時代って。
ほかにも虞美人、四面楚歌、鴻門の会などのエピソードがある。
「虞美人草」という花があるが、これは虞美人が自決したところに咲いたという伝承のある花だ。コクリコ、ポピー、ヒナゲシとも呼ばれる。
また、鴻門の会だが、飲み会などで早く帰りたいのに帰してくれないとき、「ちょっとトイレ」って言ってその場を逃れることをひっそりと鴻門の会と呼んでいる。
鴻門の会の観光地は西安の北東の方にある。
人気のほどはまちまちのようだが、行ってみてもいいかも。
また、どうしてこんなにも詳しいストーリーがたくさんあるのかというと、前漢時代に司馬遷が武帝の自分を宦官にした処罰にブチ切れた勢いで書き上げた『史記』のおかげだ。ブチ切れて歴史書完成させるってのもよくわかんないけど。
史記は紀伝体で書かれた、ということを一応書いておく。年代の羅列だけでなく、個人の列伝のあるいわゆるストーリー性のある歴史記録書だ。
話を戻します。
簡潔に言うと、戦いを制したのは劉邦である。
項羽を最終決戦垓下の戦いで項羽を破り、高祖として漢王朝(前漢)をたてた。紀元前202年。垓下遺跡は安徽省の北の方にあります。ぜひ足を運んでみてはいかが。
漢王朝の政治体制
前回の秦王朝は、統一と中央集権を頑張りすぎて超絶反動と反発が大きかったことを踏まえ、同じ轍は踏まぬと、急激な中央政権を避け、民衆の生活の安定に努めた。郡県制やら封建制やら郡国制やらというのを行った。(政治は言葉だけ触れておく
北方の冒頓単于
北方には匈奴という民族の冒頓単于というつわものがいた。毎度毎度北方からの侵入者に悩まされる中国大陸。白登山の戦いで漢の劉邦こと高祖は冒頓単于に敗れてしまった!王朝をとられたりとかはしなかったけど、毎年多額の物品を送らなくてはいけない関係になった。屈辱!という感じ
戦いの場になった白登山は山東省大同にあるようです。
呉楚七国の乱
時代は6代皇帝景帝の時、また政治関係でもめた。中央集権を緩和すると周りが強くなってしまうのは自然の流れでもある。紀元前154年、呉楚七国の乱がおきます。
この反乱は収まったけど結局中央集権が強まった。
7代皇帝武帝の時代は前漢王朝の最盛期だ。武帝は推恩の例を出してその勢力をもっと中央に寄せた。
そして官吏は地方長官の推薦で決めた。(郷挙里選)
久々の諸子百家。武帝は儒家を採用。儒家の董仲舒の提案により儒学が官学とされた!前回は焚書坑儒に遭った儒家さんたちもついに脚光を浴びる。
東西南北へ勢力引き延ばし
北
そして劉邦こと高祖の時代に白登山で冒頓単于に大敗北してシブい関係をもっていた匈奴との関係性だが、そろそろリベンジ行けるだろうと思ったのか、今までの態度を改め衛青、霍去病(かくきょへい)を送りつけてチクチクと攻撃するようになった。その頑張りが実を結び、匈奴はゴビ砂漠の方、とにかく更に北の上の方へと追いやることに成功、お疲れ様です。また侵入してこないように、オルドスに朔方郡、河西に敦煌を置いた。地図上のイメージとしては、万里の長城的な感じで、北にいる匈奴に対し横一直線に細長くバリアラインを張った感じ。
敦煌、私が行きたい地域ナンバー1!ここ思ったよりも西の方にある。私が行きたいこの敦煌は、匈奴との闘いの末、漢の時代にできたものだったのね!
西
また、この時同時に張騫を大月氏に派遣させて匈奴の挟み撃ちをたくらんだ。大月氏はめっちゃ西にいる。敦煌よりも更に西。つまり東の漢、南の長城、西の大月氏となれ北の匈奴をうまく囲い込める。しかしこれは大月氏の同意を得られず失敗に終わる。
失敗に終わったが、西の情勢を知れたので意外と悪くなかったようです。
また、さりげなく、仏教が伝わってきていた!
しかしこの時代はあまり仏教が着目されていないようだ。
西の情勢がわかって以降、武帝は張騫を今度は烏孫(うそん)に派遣したり、大宛(だいえん、フェルガナ)にちょっかいを出したりするようになった。秦の時よりも周囲の民族とのかかわり合いが増えて面白くなってきた印象!
南
武帝は南にもちょっかいをだしていた!秦の滅亡の時にちゃっかり自立していた南越。ここを征服して支配下に入れた。そして南海9郡を置いた。めっちゃスケールが大きい。。。北にも南にもこんなに伸ばすことができるのね
東
その手はさらに東北の朝鮮半島にも。やばない?武帝は衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮北部に楽浪、真番、臨屯、玄菟の四郡を置いて直轄市とした。情報量が多すぎて文字の羅列になってきた!とにかくすごい武帝
特に楽浪郡は、倭人、つまり日本人も往来していた。海を渡ってよく来たな…
しかし外征が続いて国家財政は苦しくなった。当たり前すぎる。見てるこっちがはらはらしてくる政略っぷりだもの。
ここで武帝は五銖銭という新たな貨幣を鋳造した。
また、塩、鉄、酒の専売を行い、均輸法、平準法を実施した。均輸法や平準法は物価調整や国有化みたいなもの。こんな感じで民衆の負担がどんどん重くなっていった。
立て直しはいまいちうまくはまらず、次の宣帝の時代で、外の親戚と書いて外戚、の人たちや宦官などがはびこり、皇帝の権力は失墜。地方の豪族も力をつけていくようになった。豪族は牛耕という当時の最新の農法で奴隷や小作人を使った農業をおこなったものだから、前7年に哀帝が限田策を実施することで土地所有と奴隷の数を制限しようとしたけれども、うまくいかなかった。だんだんうまくいかないことが増えていっているかのようなそんな気持ちになる、しかし名前が哀帝って、またずいぶんと哀しそうな名前をしている…。
こうして前漢の勢力はしとしととゆっくりと弱くなっていき、
外戚の一人であった王莽(おうもう)が前漢を倒して新国を建てたのだった。
漢王朝、秦の次の統一王朝は思った以上にスケールが大きくていろいろ詰め込むと後漢まで行きつかなかった!
秦は国内の統一でまず試行錯誤をしたと思うけど、 前漢は周囲の少数民族との関係性も生まれ始めて、また新たな段階に入った王朝だったなと思う。
こうして全体と詳細に焦点を何度も行き来させながら歴史を見つめられるのはとてもいいな!しかもこうして書き起こすことで自分のペースで適当に記憶できるし、自分の着目したいところを勝手に膨らませることができてとても楽しい。
次回はなんやこれは?新の国?そして後漢へ!後漢の時代にはマルクス=アウレリウス…!?なんとその時代のローマ皇帝の元までたどり着く!
今日からここは中国史です③秦王朝
最近脱線しがちで、かつなんだかんだで中国の大学のネット授業も地味に時間をとるので、長らく中国史をやっていませんでした。ブログに書き残すことの良い点としては、こう間隔があいたときに過去の記録がしっかり残っていることですね。
今回は秦王朝の誕生から瓦解までです。
一言で表すと
めちゃくちゃ「統一」する
です。
以前、春秋戦国時代に覇者やら戦国の七雄やら、さまざまな強い人たちが現れ、お互いにブイブイ言わせていました。
春秋戦国時代末期には秦が台頭し、縦横家による秦の対応方法に関する論争も始まります。
さて、ここからは秦の目線。
時代を気持ち巻き戻して時代は戦国時代の初め
渭水に沿って勢力を拡大していた秦、孝公が秦をまとめていた時に、都を咸陽に置きました。
西安は旅行先としての見どころ抜群です。その主要な魅力はこの秦から始まります。
また、このころに諸子百家として法家の商鞅とタッグを組んで政治をおこなっていた。なるほど、法治国家!
こうして中央集権化を図り、戦国の七雄とか言われるころ、ついに秦は七国の中でも最強になります。
やっぱり同じように七雄として並べても、「この国が最強」とかあるんですね。「奴は四天王の中でも最弱!ちなむとあいつは最強!」みたいな感じかなあ
そして秦王の政の時に、すべての他国を打ち滅ぼし、統一を果たす!
その年紀元前220年
この政さんこそまさにかの有名な秦の始皇帝
今までの強い人たちはみんな王を名乗っていた、でもその王を打ち滅ぼしたいま、自分は王よりも強いということになる。え、王より強いのに王を名乗るのっておかしくない???!ということで皇帝という名乗りを使うことにしたようだ。そして私は皇帝の始まりだーーというわけで始皇帝。
政さんこと始皇帝は引き続き法家を採用した。この時代の法家は李斯
政治の詳しい仕組みにはめっぽう弱いので割愛。
とにかく中央集権をテーマにいろいろと統一した。
とりわけ有名なのは
度量衡、貨幣の統一
『世界史詳覧』より
度量衡は重さや長さのめもりだ。これの標準を作った。大事なことだ。
そして貨幣なんかは以前の時代でもあったように、刀銭蟻鼻銭布銭半両銭やらと各国が思い思いの形のお金を使っていたと思う。これのうちの、秦がもともと使っていたのと同じ半両銭の形での統一をおこなったのだ。一番見慣れたあの形だ。
もしこの時、ほかの王朝が統一したり、秦が使っていたお金がまた変な形だったら、今までのお金の歴史にいくらか変化があったのかもしれない。
いつかお金についてまとめてみてもいいなあ
そして、言論、思想の統制も行った。
ここで、医薬占い農業などの技術書以外の本を焼かせ、
他には以前の時代から燕や趙が北方騎馬民族をあしらうために個人的に作っていた万里の長城を大幅に強化、修築した。
このようにして、秦は初めての統一王朝としてせっせと体制を整えたのである。
王朝のみならずとにかくいろんなものを統一した。
めちゃめちゃ中央集権体制を整えた秦。
これは中国の中央集権スタイルの重要な前身となった一方で、あまりに酷で厳しめの統治にみんな普通にイライラした。
前時代の六国たちもむりやり押さえつけられただけでまだまだ元気に反感を抱いていた。
特にここで兵馬俑の登場。
自身の死ぬ前からこの超絶大規模な”my墓”建設を始めたのだ。
兵馬俑は旅行で無事に見に行くことができた。場所はもちろん西安だ。
ちなみに日本語が喋れるガイドさんがいる。誘い方が怪しいが、お願いしたほうが兵馬俑観光が100倍有意義になるので注意してください。
兵馬俑全景
母の時代は撮影禁止だったらしい
唯一完全な形で残された埴輪
靴底までリアル
この兵馬俑の兵士たち、クオリティが異常に高い。一人ひとりが違う顔、髪の毛一本一本を描き、靴底の模様も描き、手の込み方が尋常じゃない。なるほど権威の現れであり、同時に過酷な統一の現れであった。
そうこうしているうちに政さんこと始皇帝は病気に倒れ亡くなった。二世が即位したがやっぱり始皇帝にはないここぞというスキがあったのか。陳勝呉広の乱がおきた。
圧政にブチぎれた平民の反乱である。兵士として駆り出された陳勝。お役目として河北に向かわなくてはならなかったがアクシデントで遅刻が確定した、向かえば確実に殺される、そんな状況に陥り、もうどうせ死ぬのならと呉広と一緒にブチぎれた。
「王侯少将いずくんぞ種あらんや」「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」のスローガンで有名だ。
この乱を契機にまた各地が今ぞ今ぞと騒ぎ始めた。
この時登場する二人の男。そう項羽と劉邦!!
エリート将軍項羽と、田舎のいい加減オジサンの劉邦。この二人、先に秦王朝にたどり着いて打ち滅ぼしたほうが次代の王朝を築くことになる。
果たしてそれはいったいどちらだったのか!
”凤梨” ”菠萝” 二つの”パイナップル”には違いがあった
凤梨と菠萝は、それぞれ何の果物のことかご存じですか。
答えはパイナップルです。
二つともパイナップルなんかい!
そう、二つの名前が並立して存在しつつ、どちらもパイナップルなのである。
何言ってるかわからないと思うが、私も何言ってるのかわからない
とりあえずこちらを紹介します
こちらはかの有名なパイナップルのお菓子
かくしてこちらはパイナップルのアイス
どっちもパイナップルである。
まあたまたま北方と南方でちがいでもあるんだろくらいだったけど
最近たまたま見かけた百度のコラムによると
実はこの二つには違いがあった。
1、葉っぱ
菠萝の葉っぱ
のこぎりの歯のような、ナイフのような葉先で、手に刺さりそうなとげとげしさがある
また、厚みがなく、とても薄い
凤梨の葉っぱ
葉っぱのふちにのこぎりのようなギザギザしたものはなく、比較的まるみがあってつやがある。葉の触った感じも分厚い。色も菠萝と比べて青緑色が強い。
2、外皮の部分
菠萝の外皮
凸凹した形をしていて、色もよりオレンジ色をしている。
凤梨の外側
色がより深い緑色をしている。
凹凸はまあまあある。
3、中のとげ
これは最後に家に持ち帰って、果物を実際に切ってみたときにようやくわかる違い
菠萝を切ると中にとげがある。食べる際わざわざ取り除かなくてはならない。
凤梨を切ると中にとげは見られない。
4、まとめ 中国人にも違いの分別は難しい。
事実、菠萝 凤梨のいずれかをネットで検索すると、”この二つの違いは何か?”という検索結果がたくさんでてくる。中国人にとってもこの区別は永遠の話題になりそう。
味そのものにも大きな違いはないみたい。
こういう単語の違いって南方と北方で使われている言葉が違うから、ていうオチも結構あるけど、これに関しては一応、種類によるものがある、とだけとりあえずは認識しておけばよいのではないでしょうか。
ちょっとだけハナタカさんになった気がするので、もしタイミングがあったら人に自慢してみよう。
清明節と2020年
今日4月4日は中国の清明節
祝日です。
清明節とはどのような日なのか
そして、今年の清明節はどのようであったのか
見ていきます。
現代の清明節
この日は学校も会社も基本的にお休み
中国には二十四の節句があり、基本的に一か月の上旬と下旬に祝日がおかれています。
この日、人々は外に出て春を感じ、またお墓詣りに行くなどをして先祖を祀ります。
清明節はもともとその二十四節気の一つの名称に過ぎませんでしたが、
清明節の一日前にあった”寒食節”に引っ張られ、のちに先祖を祭る日としての要素が加わりました。
清明節の来歴
中国の春はこのように形容されます。
”万物生长此时,皆清洁而明净,故谓之清明”
意味(万物の生命が芽吹くこの一時は、みなきれいで明るく澄みきっている、ゆえにこれを清明という。)
春は川が流れ、花が咲き、草木が茂るこの季節そのものを形容して、清明節という名前があるのです。
人々はこの清明節に”踏青”という行為をします。
陰陽説に由来しますが、冬は”陰気”があふれる時期で、陽気を吸収することができません。冬の間に使い切ってしまった陽気を再びとりいれるために、春に外にでて草木を踏む”踏青”をします。
寒食节について
そして、寒食節について
清明節の前日に寒食節があります。
寒食節とは、たばこを吸ってはいけない、料理をしてはいけない、冷たい食べ物だけを食べる日。
春秋時代、晋国に重耳という王子がいました。しかしままははが彼を暗殺しようとしていることを知り、晋国から亡命します。重耳は逃げた末に空腹と疲労で瀕死の状態になりましたが、介子推という一人の男性がそれを救いました。重耳は晋の文公として、晋の国王に帰り咲くことができ、介子推を位の高い官僚に推薦します。しかし彼は争いを拒み山に隠れます。文公は彼を探し出すために山を燃やしました。山を燃やせば出てくるだろうと思ったようです。しかし彼はそれでも山からでてこようとせず、そのまま焼死してしまいました。
文公はひどく後悔し、それ以降毎年彼の命日にお墓参りに行くようになります。
ある時、彼の死んだ場所に柳の木が突如成長していたことに気づきました。
文公はその柳を折り、冠を作って頭にかぶせました。
ここから、人々は彼が死んだこの日は火を禁じ、冷たいものを食べることで、彼の気持ちに寄り添ったのでした。
これが寒食節の由来です。
こうしてのちにこの寒食節は清明節に融合していき、一つの祝日になりました。
今は冷たいものを食べる習慣はなくなりましたが、清明節との融合でその名残があります。
柳を折って冠をつくる、「戴柳」という風習が今も残っているようです。
また、このようなことから、清明節には 踏青や戴柳の習慣に加えて、祖先を祭り、お墓詣りに行くという習慣があるのです。
清明節に関連する有名な詩
清明節でセットで紹介される詩があります。
杜牧による詩です。
杜牧
清明时节雨纷纷
路上行人欲断魂
借问酒家何处有
牧童遥指杏花村
qing1ming2shi2jie2yu3fen1fen1
lu4shang xing2ren2yu4duan4hun2
jie4wen4jiu3jia1he2chu4you3
mu4tong2yao2zhi3xing4hua1cun1
清明の時、ひどく雨が降っている
道行く人は悲しみにくれているかのようだ
お尋ねしたい、酒屋はどこにあるのでしょうか。
牧童は杏花村を指さした。
踏青や戴柳をするほどに、春の陽気に天気が良いはずの清明節
その日に冷たい雨が降っている。
道行く人も心なしか物寂しげな表情
杜牧自身も左遷され一人でその道に立っていました。
こんな時は、酒を飲もう。と思い立ち、たまたま出くわした牧童に酒屋を訪ねます
子供は「あっちだよ」と、花の咲く村を指さしました。
こんな感じの詩です。
2020年の清明節の持つ意味、実際の様子
TikTokでは武漢の街の様子を生放送で放映。人ので歩いている様子が見られるようになった
今年は黙祷と降半旗がありました。
こちらは日本大使館です。
この日は、さまざまなアプリサービスも白黒に。
また、ウィーチャットを開いたらこのようなものを見かけました。
病があなたの命を奪い、うまく別れを告げることも出来なかった
あなたに会いたい
あなたが去ってしまってから、恋しいという感情がこういうものなのかと分かってしまった。
私の拙い和訳ですが、このような事です。
今年に入り、突如コロナが広まり、すでに多くの人がコロナにより命を奪われました。
今年の清明節は、多くの中国の人にとっていつも以上に特別な意味を持っていると思います。
これは他人事ではありません。
私たちも軽視せずに、いまできる最善を尽くしていけたらと思います。