竹林のひと

中国留学をしていました中国のことを書いてます。読みやすさを考慮していません。記事はアップしてから修正する派です。

ガスミュージアム 台所についてマニアする

昨年に行ったガスミュージアムについてまとめます。

 

ガスミュージアムは小平にある東京ガスによるミュージアムです。

生活の中に必要なものとして常にかかわってきたガスについての展示をしています。

以下はガスミュージアムにていただいた資料パンフレットからとったまとめになります。

時間をかけて徐々に自分のわからないところや、気になった部分を掘り下げていけたらと思います。 

 

 

 

「台所」の語源

平安時代 貴族の家にあった「台盤所」から来ています。この場所で台盤を並べて料理の盛り付けをしたことからこう呼ばれました。この当時が指すものは調理をするところではなく、配膳をするところでした。ちょっとややこしくなりますが、料理をする場所として厨(くりや)というところもありました。

また、現代で使われる「女房」という言葉は、ここで働く女性のことを女房と呼んだところから来ています。

 

室町時代になると、料理を作る場所の厨と盛る場所の台盤所をまとめて台盤所、略して台所と呼ぶようになります。

 

 

 

台所シーンにおける「水」と「炎」の時代変遷

 

飲料水の変遷

飲料水は川や泉、井戸などから水を汲み、桶や甕などにためて使い、洗い物や調理は家の近くの清流などで行いました。

江戸後期、木製の流し台が登場。

流し台は高さも低く、かがんだ姿勢で作業を行いました。

明治31年、東京では洋式改良水道が敷設されました。これによって共同で水道の共用栓を設置したり、屋内に専用の栓が設置できるようになりました。やがて各戸に水道がひかれるようになると、衛生的かつ家事労働が軽減され、水をためる桶や甕も必要なくなりました。こうして台所の場所や洋式も変化していきます。

昭和30年後半、瞬間湯沸かし器が広く普及します。これによってお湯が簡単にわくようになりました。

 

 

炎の変遷

明治中頃まで、家で炎を使う場所と言えば「竈」と「囲炉裏」でした。

「竈」は台所に置かれました。煮炊きの場として使われます。

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囲炉裏は炊事や暖房の役割を持っており、一家が団らんする場でもありました。

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このような薪炭と煙と共に過ごす生活スタイルは、明治30年代に入ると、「都市ガス」という新しい燃料によって大きく変わっていきます。

しかし、ガスもその後登場した「電気」によって次第に姿を消していきます。

第二次世界大戦後、石油燃料、プロパンガスなどが登場しました。

高度成長期以降、「ガス」「電気」が炊事における熱源として定着し、その頃にはもう台所から薪炭は消えていきました。

 

ガスの炎

ガスは、はじめ「明かり」として使われ始めました。

明治30年代、煮炊きなどの「温めるもの」としての用途を広げていきます。

当初は海外から輸入した器具をそのまま販売しました。しかし。一般の人にはこれはなじみにくく、非常に高価であったため、なかなか普及しませんでした。

 

明治35年(1902)、東京ガスにより、国内最初のガス器具特許品『炊飯用ガスかまど』が発明されました。やがてこれをはじめとして様々な国産ガス器具が開発され、ついに日本で広く一般に普及していきました。

明治36年(1093)『食道楽』によってガス化台所(西洋化台所)が紹介され、これは台所のガス化を後押ししました。

 

『食道楽』とは

村井弦斎著の『食道楽』は、報知新聞によって一年間連載されたもので、ヒロインのお登和さんが料理を作り、蘊蓄を語るという小説の形をとりながら、欧米の進んだ文明社会における台所や食生活を紹介しました。これが大人気を博し単行本化され、それが大ベストセラーとなり旋風を巻き起こしました。内容には和洋中華、シチューやカキフライ、ワッフル肉まんオムライス ケチャップライス、プリン、ロールケーキなどから、苺ライスや腎臓料理などまでの多種多様の料理が紹介されるました、とても夢がありますね。✨

そして、この『食道楽』の中で、西洋の「ガス化台所」が紹介されたのです。ここでは、日本のものと比較することで、日本の台所の不合理、旧弊を批判しました。

 

西洋讃美の風潮がある時代とも言えるので、それもまたこの小説の日本の台所批判の背景とも言えます。

 

その『食道楽』の中で大隈重信邸の台所の様子が掲載されたことがあります。

大隈重信邸では、イギリスから「ガスストーブ」を輸入し、台所には前年に発売して間もなかった「ガスかまど」も完備されていました。

重信邸宅のガスストーブは当時の金額で250円(現400万円)しました。また台所をガス化するために、わざわざ早稲田の自宅までガス管を引きました。

 

ガス台所は、以前の囲炉裏やかまどとは異なり、コックをひねれば簡単に火が使え、煮炊きも立った状態で作業ができました。

 

そして燃料はガスなので、家に燃料を貯蔵する必要がなく、鍋釜の底が煤で汚れることもありませんでした。

このような台所は西洋的、近代的なものとして人々に認識されていったのです。

 

『食道楽』の中では、「台所は生活と健康に大事な中心的な存在として考えるべきで、明るく清潔でなければならぬ」と主張され、西洋料理とその器具、台所は優れているという考えを定着させました。

大隈邸のガスで煮炊きをする台所の姿は、本のベストセラーと都のに、人々へ「台所のガス化」の定着を促進させました。当時の上流階級の人々は次々と海外からガス器具を輸入し、台所をガス化をしていきました。

 

「電気」と「ガス」の競争

ー明かりを灯すものとして、または物を温めるものとして。

明治30年代(1900年代)ガスの炎は電灯との照明における競争の中で、

新たな利用先として「熱源」の用途を開拓し始め、市場を広げていきました。

一方、電気でも大正初めに『タングステン電球』が量産されると、電力消費がそれまでの約三分の一になります。

(タングステン電球とは、白熱電球の一つで、電球の中の鉄のような線の光る部分「フィラメント」にタングステンを使ったものです。

タングステンをフィラメントの素材に使う以前は、竹とか木綿とかプラチナとかを試行錯誤しながら試している、そんな時代でした。

とにかく、タングステン電球の発明によって電力の利用に余剰ができました。

その新たな利用先として「ニクロム線」を使った熱源の用途に進出します。

(ニクロム線とは、ニッケルとクロムを主とした合金です。冗談みたいな名前ですね

電気抵抗が大きいことが特徴で、その抵抗の大きさが発熱を呼びます。こうして電気ストーブなどのようにして物を温めるものとして使われるようになります。

 

はじめは海外から器具を購入していました。

 

大正中期程になると、国産も登場しました。こうして熱源としての用途をめぐって再びガスと電気の戦いが始まります。

 

大正末期 ガス七輪 電気七輪 ガス竈 に対し、電気釜などが登場します。

 

 

昭和の初めにはこの戦いがピークを迎えましたが、戦争によってこの戦いはかき消されてしまいます。

 

 

 

ガス器具、家電

 

台所のガス器具

ガス器具ははじめは海外から輸入していました。

しかし、輸入ものは日本人には使いづらく高価であったため広くは普及しませんでした。一般の人にも使ってもらおうと、日本人にあった比較的安価な製品が作られるようになります。

 

~ガス器具いろいろ~

炊飯器

明治35年(1902)にガスの炎でご飯を炊く、「ガス竈」が日本で発明されます。丸底のお釜を、中に火口を仕込んだ鉄製の筒に落とし込む形をしていました。

昭和6年(1957)には、かまど内の圧力を感知して自動的に炎の大きさを調節する、「文化自動炊飯器」が登場します。

昭和32年(1957)になって、現在のような一体型炊飯器の登場しました

 

コンロ

はじめはすべて輸入品でした。

明治の終わりには、一口コンロが日本で生産されるようになっていました。

西洋のコンロは、底が平らな西洋のやかんに合わせて設計されていたので、底が丸かった日本のやかんや鍋は座りが悪く、使いづらいものでした。

そこで国産品は内側に向かってくぼみ、安定性を上げることで使いやすくなりました。

二口以上のコンロやオーブン付きの製品に関しては、明治の終わりにコピー品が登場しました、しかしこれは短命に終わります。

昭和のはじめになると国内メーカーによる製品が改めて登場します。

 

湯沸かし器

明治35年(1902)、広告チラシに大型湯沸かし器が、明治37年(1904)には洗面用の小型の湯沸かし器が登場しています。

大正5年(1914)、輸入品をコピーした国産品が登場しましたが、実際に広く使われるようになったのは昭和5年(1930)「YOY121號湯沸器」などが発売されてからのことでした。

 

冷蔵庫

明治36年(1903)第五回勧業博覧会にて、氷を使って冷すタイプの氷冷蔵庫が登場しました。この製品は、内部に氷の塊を入れて冷やす構造でした。

昭和2年(1927)には電気冷蔵庫が輸入されるようになりました。

昭和5年(1930)になって、ついに国産品の電気冷蔵庫が登場します。

しかし、この間、昭和3年(1928)においてガス冷蔵庫が初めて輸入されています。

ガス冷蔵庫の原理は、気化熱を使います、アンモニア溶液を気化させるときに、ガスの炎で熱していました。

モーターを使用しないため、音のない静かな点が特長でした。しかし、戦前、このようなガス冷蔵庫は電気以上に珍しいものでした。

 

現在におけるガス器具

現在台所で使われている様々なガス器具には、自動点火装置や不完全燃焼防止装置、てんぷら油過熱防止機能などの、便利で安全に使える機能が搭載されています。

また、器具の種類も。炊飯器、コンロのほかに、ガスオーブンレンジや食洗器など、さまざまな便利器具が発明され、現代の台所を支えています。

 

台所からキッチンへ

システムキッチン

大正中頃になると、ガス会社は器具だけでなく、台所調理システム全体を販売するようになります。

これは「調理台」と呼ばれます。

ガス会社が販売を手掛けたことによって、流しから調理スペース、かまどと、一連のガス器具が機能的でまとまりのあるものになりました。

大正9年(1920)ガス会社のカタログには、ガス器具が組み込まれた調理台が登場しており、台所の改良工事まで相談に応じるようになりました。

昭和6年(1931)に掲載されたカタログには、流しの氷冷蔵庫を備え、ガス七輪とガス竈が設置できる「一合炊事台」。または蚊帳などがくみこまれた「三号タイル張り調理台」など、さまざまな形の調理台が登場します。

 

公団住宅、そしてダイニングキッチンへ

昭和26年(1951)にダイニングキッチンが登場します。これは集合住宅において食寝分離を狙い、広い台所で食事をするということを提案するものでした。この様式が定着するきっかけは、昭和31年(1956)ステンレスの流しとテーブルが備え付けられた、公団住宅の登場が背景にありました。

 

ダイニングキッチンスタイルは当時の人々にとって従来の「茶の間」が食事兼台所になり、ちゃぶ台返しが椅子とテーブルに代わり、主婦が生活の中心地になることも意味しました。

このダイニングキッチンでの生活を営むのに欠かせないものこそが、ステンレスの流し台と、食事用のテーブルでした。

素材も木製のものから、ステンレス製の高さ80センチのものが公団住宅の流し台に使用されました。

また、当時の人々には椅子とテーブルの生活はなじみの無いものだったので、初期の公団住宅には初めから椅子とテーブルが備え付けられているものもありました。

 

システムキッチン

明治中頃、ドイツを中心として発達しました。

昭和の初めには欧米全域に普及しました。

昭和40年代後半になり、ようやく日本にてシステムキッチンは登場しました。

その後は急速に普及し、台所が室内のインテリアスペースとしてとらえられるようになっていきます。

 

 

 

多くの商品が打ち出されている昭和35年に何があったのか?!

写真を添えること

それぞれの最初の発明された会社や商品を調べたい

しくみをもっと詳しく

キッチン今昔の部屋の構造の違い

これらを調整していこうと思います

以上!