今日からここは中国史です③秦王朝
最近脱線しがちで、かつなんだかんだで中国の大学のネット授業も地味に時間をとるので、長らく中国史をやっていませんでした。ブログに書き残すことの良い点としては、こう間隔があいたときに過去の記録がしっかり残っていることですね。
今回は秦王朝の誕生から瓦解までです。
一言で表すと
めちゃくちゃ「統一」する
です。
以前、春秋戦国時代に覇者やら戦国の七雄やら、さまざまな強い人たちが現れ、お互いにブイブイ言わせていました。
春秋戦国時代末期には秦が台頭し、縦横家による秦の対応方法に関する論争も始まります。
さて、ここからは秦の目線。
時代を気持ち巻き戻して時代は戦国時代の初め
渭水に沿って勢力を拡大していた秦、孝公が秦をまとめていた時に、都を咸陽に置きました。
西安は旅行先としての見どころ抜群です。その主要な魅力はこの秦から始まります。
また、このころに諸子百家として法家の商鞅とタッグを組んで政治をおこなっていた。なるほど、法治国家!
こうして中央集権化を図り、戦国の七雄とか言われるころ、ついに秦は七国の中でも最強になります。
やっぱり同じように七雄として並べても、「この国が最強」とかあるんですね。「奴は四天王の中でも最弱!ちなむとあいつは最強!」みたいな感じかなあ
そして秦王の政の時に、すべての他国を打ち滅ぼし、統一を果たす!
その年紀元前220年
この政さんこそまさにかの有名な秦の始皇帝
今までの強い人たちはみんな王を名乗っていた、でもその王を打ち滅ぼしたいま、自分は王よりも強いということになる。え、王より強いのに王を名乗るのっておかしくない???!ということで皇帝という名乗りを使うことにしたようだ。そして私は皇帝の始まりだーーというわけで始皇帝。
政さんこと始皇帝は引き続き法家を採用した。この時代の法家は李斯
政治の詳しい仕組みにはめっぽう弱いので割愛。
とにかく中央集権をテーマにいろいろと統一した。
とりわけ有名なのは
度量衡、貨幣の統一
『世界史詳覧』より
度量衡は重さや長さのめもりだ。これの標準を作った。大事なことだ。
そして貨幣なんかは以前の時代でもあったように、刀銭蟻鼻銭布銭半両銭やらと各国が思い思いの形のお金を使っていたと思う。これのうちの、秦がもともと使っていたのと同じ半両銭の形での統一をおこなったのだ。一番見慣れたあの形だ。
もしこの時、ほかの王朝が統一したり、秦が使っていたお金がまた変な形だったら、今までのお金の歴史にいくらか変化があったのかもしれない。
いつかお金についてまとめてみてもいいなあ
そして、言論、思想の統制も行った。
ここで、医薬占い農業などの技術書以外の本を焼かせ、
他には以前の時代から燕や趙が北方騎馬民族をあしらうために個人的に作っていた万里の長城を大幅に強化、修築した。
このようにして、秦は初めての統一王朝としてせっせと体制を整えたのである。
王朝のみならずとにかくいろんなものを統一した。
めちゃめちゃ中央集権体制を整えた秦。
これは中国の中央集権スタイルの重要な前身となった一方で、あまりに酷で厳しめの統治にみんな普通にイライラした。
前時代の六国たちもむりやり押さえつけられただけでまだまだ元気に反感を抱いていた。
特にここで兵馬俑の登場。
自身の死ぬ前からこの超絶大規模な”my墓”建設を始めたのだ。
兵馬俑は旅行で無事に見に行くことができた。場所はもちろん西安だ。
ちなみに日本語が喋れるガイドさんがいる。誘い方が怪しいが、お願いしたほうが兵馬俑観光が100倍有意義になるので注意してください。
兵馬俑全景
母の時代は撮影禁止だったらしい
唯一完全な形で残された埴輪
靴底までリアル
この兵馬俑の兵士たち、クオリティが異常に高い。一人ひとりが違う顔、髪の毛一本一本を描き、靴底の模様も描き、手の込み方が尋常じゃない。なるほど権威の現れであり、同時に過酷な統一の現れであった。
そうこうしているうちに政さんこと始皇帝は病気に倒れ亡くなった。二世が即位したがやっぱり始皇帝にはないここぞというスキがあったのか。陳勝呉広の乱がおきた。
圧政にブチぎれた平民の反乱である。兵士として駆り出された陳勝。お役目として河北に向かわなくてはならなかったがアクシデントで遅刻が確定した、向かえば確実に殺される、そんな状況に陥り、もうどうせ死ぬのならと呉広と一緒にブチぎれた。
「王侯少将いずくんぞ種あらんや」「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」のスローガンで有名だ。
この乱を契機にまた各地が今ぞ今ぞと騒ぎ始めた。
この時登場する二人の男。そう項羽と劉邦!!
エリート将軍項羽と、田舎のいい加減オジサンの劉邦。この二人、先に秦王朝にたどり着いて打ち滅ぼしたほうが次代の王朝を築くことになる。
果たしてそれはいったいどちらだったのか!