竹林のひと

中国留学をしていました中国のことを書いてます。読みやすさを考慮していません。記事はアップしてから修正する派です。

今からここは中国史です⑤後漢と漢文化

新と後漢やるです。

 午前中かけて書いていたのに気づいたら後半部分消えてたから書き直した。どういうこと! 

   

 

前漢を振り返ると、劉邦が勝ち取って誕生した漢王朝。高祖と名乗り秦の反省を生かした王朝となった。

景帝の時代に呉楚七国の乱がおきるも何とか王朝を保つ。

七代武帝の時代に最盛期を迎えた!めちゃくちゃ外征をして中国の歴史にも東西南北の周囲の存在が垣間見えるようになってきました✨

しかし外征の反動でこれまた縮小へと向かいます。

奴隷や小作人の悪用が増え、哀帝はこれを立て直そうとするも政策がうまくはまらず。

宦官や外戚の台頭が見え始め、前漢外戚の一人である王莽によって倒され、一瞬という王朝ができます。

 

紀元前も抜けてA.D、紀元後の時代に突入しましたね。

新王朝の建国時期は紀元後8~23年。15年という短さです。大正時代と同じやね。

 

王莽さん、奴隷の売買を禁じ、官制や貨幣制度を改め、商工業を統制するなどした。

一見頑張ってる感じするけど、現実は周の時代を理想とした時代遅れの復古主義だったようで、かなりの反発があった。高句麗匈奴などの周りの方々も「こんなの違う」と思ったのか次々と離反した。

 

あっという間に赤眉の乱がおきて都長安は陥落。王莽は殺されて新は滅亡した。あまり政治自体に私欲の混じった感じの印象を受けなかったのでなんかかわいそうな気がしなくもない。

 

ここから後漢の時代が始まる。(25~220年)心機一転である。

王莽を殺した後も続きやや混沌とし始めていた赤眉の乱を鎮圧させ、トップに立ったのは劉秀(りゅうしゅう)こと光武帝

都はちょっと動いて洛陽へ。

 

内政に力を注ぎ、対外政策は消極的だった。前漢武帝の外征ガンガン政策はやはりちょっと反省ポイントだったのかな

 

光武帝儒教国教化

光武帝は、武帝が、前漢のときのすごい大遠征したあの武帝さんが官学にした儒教を再び押し上げた。

光武帝によって儒教は保護奨励され、ほかの思想を圧倒しただけでなく、日常の規範として定着した。儒教の国教化である!

こうして国教化された儒教は、秦の時代に法家をメインにしていたことから行われた焚書坑儒、あのときに燃やされた古書の復元や経典の解釈に力を入れるようになった。これらは訓詁学として馬融や鄭玄によって大成された!

 

儒教国教化の一方で陰陽五行の思想も広く信頼を得ていた。

ほかにも、許慎は古典を読むために必要な説文解字という字典に当たるものを作った。

文字体も秦代の篆書から変わり隷書という、書くときにより便利な字体が使われるようになった。

 

 

 

基本的に内政に力を入れていた光武帝だったが、日本とのかかわりの記録がある!

倭国日本にあの有名な金の印鑑、あの印鑑の裏に「漢委奴国王」と書いてあるあれ、あれを送ったまさにその人が光武帝なのだ。

今まで朝鮮の楽浪郡までしか行き来してなかった日本人だが、後漢の初め頃に洛陽へと訪問し、この印鑑をもらった。

 

そしてさらに何年か経ち、皇帝も後代にわたっていくうちに、内政の立て直しがいい感じになってきたら、対外政策に再び力を入れ始めた!

 

この時に、西へと西へとついにヨーロッパまで足を運ぶことになる。わくわくする。

 

時代は和帝(位88~105)の時、班超という人物が西域都護府に任命された。

班超は匈奴ナチュラルに討ち、西の方にちょっかいを出すようになる。

A.D100年を迎えるころにはカスピ海より東の国を50国も服属させていた。すごい。こうして西の西の情報が耳に入るようになったことで、向こうにはローマ皇帝なるものが存在するらしい。ということがわかるようになる。宇宙を開拓しているかのような話だ。班超も楽しかったんじゃないかな。

 

ところでこの班超をはじめとした班一族、ほかにも活躍をしていて結構すごい。

班超のお兄さん班固と、妹の班昭は『漢書』という歴史書を編纂したことで有名。

漢の時代を勉強すると、班という人物が三人も出てくるし名前そのものもなんか特徴的だなあと思う。

 

 そして97年に、班超の部下である甘英大秦国、つまるローマ帝国に派遣した!ついに東西の顔を合わせる歴史的瞬間か、と思ったらそうはならなかった。甘英は何をどうしてか現在のイラン西南部に当たる条支国というところに来てしまったため引き返して帰国。なにやってんねん!ところがまたまた、今度はローマ帝国側から、大秦王安敦の、つまりマルクスアウレリウスアントニウスの使いである、と名乗る者がベトナム経由で来てくれた!

しかしこの使い、手土産はローマのものは一切なく、象牙とかベトナムのものばっかだし、正直本物なのか最後まで分からなかった。もしかしたら「我ローマの使いぞ?」  とか言って自称したものだったのではとも言われている。とにかくこうして東西も横にダイナミックに交流をするあと一歩まで来ていた、というのがポイントである。

 

また美術史として、絹織物や漆器、銅鏡などが発達した。

シルクロードの始まりである!

また、これまで書き物といえば、木簡竹簡などが使用されていて、重いし使いづらいししかも安く手に入らない、というザ・不便な道具だった。そんな時、後漢和帝の時代88~105年の時、宦官の蔡倫は木の皮やぼろ布やらを使って紙を作る方法を見出すことに成功、つまり製紙法を開発した、と言われている。

この発明は文化の発達に非常に重要な役割を果たした!今でいうと、紙からインターネットでこうして文字を伝えられるようになった、ということも一つの歴史の流れなのかな?なんて思ったりして。この製紙法は、のちに紙漉き職人が捕虜としてイスラム圏に連れていかれたことをきっかけにイスラム圏を経由してヨーロッパに広まり、世界の文化史に大きな貢献をしたというのはまた別のお話。751年のお話。

 

 

 

さて、このように交易も広く壮大な経歴を持つ後漢王朝だったが、話題は衰退の方に入らなくてはいけない、時期は二世紀、このころには運が向かず皇帝は幼い皇帝が続いた、それによって周りの補佐の権力が必然的に強くなる。こうして外戚や宦官が実権を握るようになり、この兆候に危機を感じた儒学者や官僚たちはこの状況に反対の意を示したところ、弾圧を受けるなどの事件もあった。これは党錮の禁という。

また、農村では豪族の力が強くなっていた。184年には黄巾の乱がおきる。黄巾の乱とは太平道という、河北中心に広まった宗教結社を広めた張角が指導した反乱である。黄色の布を頭に巻いて反乱をおこしたことからこう呼ばれるようになった。

 

ちなみにこのころいろんな宗教結社が生まれ始めていて、ほかにも張陵と張魯が指導した五斗米道がある。五斗米道は四川を中心に広まった。

 

 

政府はこの乱の鎮圧に苦戦した。ようやく収まったころには他の地域の農民がその騒動に呼応し、反乱はすでに全国各地に広まっていたのでもう手がつけられなかった。

 

後漢政府の権力は完全に失われ、いろいろとめちゃくちゃになり、時代は群雄割拠へ。そして最後は220年に、曹操の子である曹丕後漢は滅ぼされることになる。

 

時代はかの有名な三国志の時代へ!でも世界史上三国志はそれほど取り上げられない!私も残念ながら詳しくはない!まあでもやっていこうと思う!

 

以上!