今からここは中国史です④漢王朝
漢王朝やります。
漢王朝は、前漢ー新ー後漢、と、途中「ん?」って感じで別の王朝が差し込んでワンクッション置きます。だから前漢と後漢に分けて考えられることが多いみたいです。
そして、前漢のイメージなんですが、
「武帝、領土拡張ぶりがえぐい」
でも他の地域とのかかわりあいを持つことは、文化の交流の足掛かりになるので、美術作品とかを眺めるのが好きな身としてはとてもおいしい!(⌒∇⌒)
ちょっと前の、秦の滅亡から入ります。
七雄の中から飛びぬけて勢力を持ち、夢の統一を果たした秦の政さんだったが、その秦の統一王朝は、勢いで統一と中央集権をしすぎた反動か、二代目に入った途端に倒されてしまいました。政治を執り行うって難しい
さて、逆ギレ反乱の陳勝呉広の乱がおこり、その勢いの中最後まで残ったのは
貴族出身男の中の男項羽と庶民出身田舎ヤンキーの劉邦という性格ほぼ真逆のお二人。
この人達の話は結構有名なものが多いし、その性格の差がまた面白い。
項羽は名門育ちで若いころから野心と才能に満ち溢れた血気盛んな男、しかし一方で部下を信用しないし、報酬を出し惜しむ一面もあった。要するに一番信用できるのは自分だったのかな、ピリピリしたエリートっぽい人物像を想像させる。そして投降した捕虜は生き埋めにした。こわいって。そんなストレスたまってたの?
一方の劉邦は農民の子。若いころは野心も覇気もなく毎日飲んだくれていた。おもしろっ。張良、簫何しょうか、韓信といった優秀な部下をめっちゃ信用していたので、見事に部下の能力を生かすことに成功。
いい感じにダメ男っぽい感じが良い。
高校時代にこの二人の話にはまりテスト期間は絵を描いていたものだ。私の高校時代って。
ほかにも虞美人、四面楚歌、鴻門の会などのエピソードがある。
「虞美人草」という花があるが、これは虞美人が自決したところに咲いたという伝承のある花だ。コクリコ、ポピー、ヒナゲシとも呼ばれる。
また、鴻門の会だが、飲み会などで早く帰りたいのに帰してくれないとき、「ちょっとトイレ」って言ってその場を逃れることをひっそりと鴻門の会と呼んでいる。
鴻門の会の観光地は西安の北東の方にある。
人気のほどはまちまちのようだが、行ってみてもいいかも。
また、どうしてこんなにも詳しいストーリーがたくさんあるのかというと、前漢時代に司馬遷が武帝の自分を宦官にした処罰にブチ切れた勢いで書き上げた『史記』のおかげだ。ブチ切れて歴史書完成させるってのもよくわかんないけど。
史記は紀伝体で書かれた、ということを一応書いておく。年代の羅列だけでなく、個人の列伝のあるいわゆるストーリー性のある歴史記録書だ。
話を戻します。
簡潔に言うと、戦いを制したのは劉邦である。
項羽を最終決戦垓下の戦いで項羽を破り、高祖として漢王朝(前漢)をたてた。紀元前202年。垓下遺跡は安徽省の北の方にあります。ぜひ足を運んでみてはいかが。
漢王朝の政治体制
前回の秦王朝は、統一と中央集権を頑張りすぎて超絶反動と反発が大きかったことを踏まえ、同じ轍は踏まぬと、急激な中央政権を避け、民衆の生活の安定に努めた。郡県制やら封建制やら郡国制やらというのを行った。(政治は言葉だけ触れておく
北方の冒頓単于
北方には匈奴という民族の冒頓単于というつわものがいた。毎度毎度北方からの侵入者に悩まされる中国大陸。白登山の戦いで漢の劉邦こと高祖は冒頓単于に敗れてしまった!王朝をとられたりとかはしなかったけど、毎年多額の物品を送らなくてはいけない関係になった。屈辱!という感じ
戦いの場になった白登山は山東省大同にあるようです。
呉楚七国の乱
時代は6代皇帝景帝の時、また政治関係でもめた。中央集権を緩和すると周りが強くなってしまうのは自然の流れでもある。紀元前154年、呉楚七国の乱がおきます。
この反乱は収まったけど結局中央集権が強まった。
7代皇帝武帝の時代は前漢王朝の最盛期だ。武帝は推恩の例を出してその勢力をもっと中央に寄せた。
そして官吏は地方長官の推薦で決めた。(郷挙里選)
久々の諸子百家。武帝は儒家を採用。儒家の董仲舒の提案により儒学が官学とされた!前回は焚書坑儒に遭った儒家さんたちもついに脚光を浴びる。
東西南北へ勢力引き延ばし
北
そして劉邦こと高祖の時代に白登山で冒頓単于に大敗北してシブい関係をもっていた匈奴との関係性だが、そろそろリベンジ行けるだろうと思ったのか、今までの態度を改め衛青、霍去病(かくきょへい)を送りつけてチクチクと攻撃するようになった。その頑張りが実を結び、匈奴はゴビ砂漠の方、とにかく更に北の上の方へと追いやることに成功、お疲れ様です。また侵入してこないように、オルドスに朔方郡、河西に敦煌を置いた。地図上のイメージとしては、万里の長城的な感じで、北にいる匈奴に対し横一直線に細長くバリアラインを張った感じ。
敦煌、私が行きたい地域ナンバー1!ここ思ったよりも西の方にある。私が行きたいこの敦煌は、匈奴との闘いの末、漢の時代にできたものだったのね!
西
また、この時同時に張騫を大月氏に派遣させて匈奴の挟み撃ちをたくらんだ。大月氏はめっちゃ西にいる。敦煌よりも更に西。つまり東の漢、南の長城、西の大月氏となれ北の匈奴をうまく囲い込める。しかしこれは大月氏の同意を得られず失敗に終わる。
失敗に終わったが、西の情勢を知れたので意外と悪くなかったようです。
また、さりげなく、仏教が伝わってきていた!
しかしこの時代はあまり仏教が着目されていないようだ。
西の情勢がわかって以降、武帝は張騫を今度は烏孫(うそん)に派遣したり、大宛(だいえん、フェルガナ)にちょっかいを出したりするようになった。秦の時よりも周囲の民族とのかかわり合いが増えて面白くなってきた印象!
南
武帝は南にもちょっかいをだしていた!秦の滅亡の時にちゃっかり自立していた南越。ここを征服して支配下に入れた。そして南海9郡を置いた。めっちゃスケールが大きい。。。北にも南にもこんなに伸ばすことができるのね
東
その手はさらに東北の朝鮮半島にも。やばない?武帝は衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮北部に楽浪、真番、臨屯、玄菟の四郡を置いて直轄市とした。情報量が多すぎて文字の羅列になってきた!とにかくすごい武帝
特に楽浪郡は、倭人、つまり日本人も往来していた。海を渡ってよく来たな…
しかし外征が続いて国家財政は苦しくなった。当たり前すぎる。見てるこっちがはらはらしてくる政略っぷりだもの。
ここで武帝は五銖銭という新たな貨幣を鋳造した。
また、塩、鉄、酒の専売を行い、均輸法、平準法を実施した。均輸法や平準法は物価調整や国有化みたいなもの。こんな感じで民衆の負担がどんどん重くなっていった。
立て直しはいまいちうまくはまらず、次の宣帝の時代で、外の親戚と書いて外戚、の人たちや宦官などがはびこり、皇帝の権力は失墜。地方の豪族も力をつけていくようになった。豪族は牛耕という当時の最新の農法で奴隷や小作人を使った農業をおこなったものだから、前7年に哀帝が限田策を実施することで土地所有と奴隷の数を制限しようとしたけれども、うまくいかなかった。だんだんうまくいかないことが増えていっているかのようなそんな気持ちになる、しかし名前が哀帝って、またずいぶんと哀しそうな名前をしている…。
こうして前漢の勢力はしとしととゆっくりと弱くなっていき、
外戚の一人であった王莽(おうもう)が前漢を倒して新国を建てたのだった。
漢王朝、秦の次の統一王朝は思った以上にスケールが大きくていろいろ詰め込むと後漢まで行きつかなかった!
秦は国内の統一でまず試行錯誤をしたと思うけど、 前漢は周囲の少数民族との関係性も生まれ始めて、また新たな段階に入った王朝だったなと思う。
こうして全体と詳細に焦点を何度も行き来させながら歴史を見つめられるのはとてもいいな!しかもこうして書き起こすことで自分のペースで適当に記憶できるし、自分の着目したいところを勝手に膨らませることができてとても楽しい。
次回はなんやこれは?新の国?そして後漢へ!後漢の時代にはマルクス=アウレリウス…!?なんとその時代のローマ皇帝の元までたどり着く!