竹林のひと

中国留学をしていました中国のことを書いてます。読みやすさを考慮していません。記事はアップしてから修正する派です。

第二次世界大戦は”たった”6年の出来事だった

コロナで地球規模のパンデミックが起こり、解決の兆しが見られない状況が続いている。

夏休みが始まろうとしているのに、自由に外食をすることも、遠出をしてキャンプに行くこともはばかられる。今年の梅雨は特に長く、私たちの気持ちをまるで映し出すかのようで、じめじめとした灰色の空の日々が続いた。ようやく晴れて、夏空が見えた。30度を悠に超える気温、東京は暑い。友達と会うにもマスク着用は必須だ。外した時の顔にべったりと汗がついていることに気が付く。

 

どこまでこのウイルスに気を付ければよいのか。

 

今の現状はこうなのではないか。

第一波の二月初め、得体のしれない異物が非感染前の島国に入り込んだ。わからないものへの対処法に試行錯誤する。名の知れた方も亡くなった。コロナは死ぬ病気だ。多くの人が悟った。

しかし、アジア人の致死率が低いことが分かってきた。自粛を行ったことによって、日本では大した被害が出なかった。医療も大きな崩壊は見られなかった。

 

コロナは大した物ではないのかもしれない。多くが感じ始めた。

むしろ経済のひっ迫に焦点が移った。この天秤なら、経済の方が維持に値する、と、いうことか。

 

飲食業を営む人々をはじめとして、営業時間の短縮により生計を立てることが厳しくなってきている。

 

このコロナの渦中、この日々に収束は訪れるのだろうか。

明日を過ごすことも危うい、そんな人も少なくないのではないか。

このコロナは永遠にすら感じてくる。

 

 

私は第二次世界大戦を経験していない。

ドラマ、映画、写真、記念館、平和公園、記念碑、、、その大枠を知っている、頭での理解に努めることしかできないが、中国で大旅行をして際にも、大連や旅順、西安に訪れた経験が肌でなんとなくピリピリとさせるものを感じた。

それがいかに、残酷で非人道的で、二度とあってはならないことであるか、ということを感じ取っている。

そして人々の生活がいかに苦しかったか。

主食は芋、食べる物も少ない。明日死ぬかもしれない、そんな日々。

 

もし、私が大戦の真っただ中に生きていたら…

 

堪え切れただろうか。生き延びれただろうか。収束は必ず訪れるという希望を持てただろうか。

 

 

戦争は突然終わった。8月6日天皇陛下のラジオでの放送によって。

 

今でも長く、長く、忘れてはならない戦争の記憶は、1939年から1945年の出来事だった。

 

 

6年、小学生が入学して卒業するくらいの期間だ。私の小学時代は幸運にも大きな問題もなく終わった。それゆえに一つの淡い記憶だ。

短いととるか長いととるか。。

 

 

戦争が終わって、人々は復興に向かった。もはや戦後ではない、という一文が経済白書に掲載されたのは終戦から10年後。 

10年で戦争の面影は遠のいた。元の水準への回復を目的として経済活動は終わり、人々は近代化へ、つまり豊かさの為の経済発展へと移行していくことになる…

 

 

戦争を軽く見ようとしているわけではない。

 

 

ただこのコロナの渦中で苦悩に立たされている私を含めたすべての人へ、もう一度考えてほしい。

現代の私たちの生きる力を絶やさないために

 

 

はっきり言うと、死なないでほしい。

 

 

気長な未来になってしまうかもしれないけれど。

 

必ず終わる日が来ることをあきらめないでほしい。

戦争は突然終わった。6年という年月を経て。どんなに辛くても、終わった。

 

この先の感染者数とか、何が何たらとか、下手な未来予想の占いとか、そんなのどれもしったこっちゃない、知ったこっちゃないのに、収束するか否か、ということだけは、実は”絶対に”収束する、と言ってもいいはずなんだ。正直私も自身はないけど。

 

でも、自分の魂とその魂を入れているその身体だけはそこにそのまま置いておいてほしい。そのままにしておいてほしい。船と一緒で、それさえあれば、渡したちはどこへでも行ける。それがいつになっても。何かに縛られているかのように見えて、私たちは案外自由なのだ。

 

少し熱が入りすぎた、自分をごまかしながら、励ましながら、でも時々やっぱりくじけそうになりながら、今日も生きています。