竹林のひと

中国留学をしていました中国のことを書いてます。読みやすさを考慮していません。記事はアップしてから修正する派です。

青木保『異文化理解』

今季のコロナの要因で半年となってしまったが、中国に留学に行った。しかし、中国留学といっても外国語大学での中国語学習が主だったので、どちらかというといろんな国籍の人と触れ合うことが多かった。中国そのものとの文化交流は今一つ物足りていない事実は認めなくてはいけないけれど、その一方で西欧、中東、いろんな国とのふれあいはより一層強い経験となった自身もあり、異文化というものには正面から対峙していったような気がする。異文化というのは、日本のことでもあり、他国のことでもあると感じる。

 

そして、帰国して、就活を進めている友達から質問が来た。

「多様性の尊重について自己の経験を述べよ」との質問にどう答えるか、という質問だった。

私はこの質問に一日中考え込んだけど一つの沼にはまってしまって抜け出せなくなった。多様性の「尊重」ってまたずいぶんと偉そうな聞こえじゃない?尊重というとどうも、自分より立場の低いものを救い上げるような聞こえがする。多様性を「知った」経験はたくさんした。でも尊重したというよりは、理解をしたからその理解に従って対応を意識して行動しただけだ。ご飯に行く相手が肉を食べない人だったからイスラム料理をメインにしたレストランに行っただけだ、何も立膝ついて手で拝み上げるような尊重するような立派なことはしていない。

この質問自体が日本の多様性に対する見識の狭さを映し出しているような気がして、どうもこの質問を投げかけた企業に不信感を覚えてしまった。考えすぎかしら?

 

日本は島国だ、というのが半年の留学の結論の一つだ。日本の国風は、アジアだから、つまり西欧ではないからこうなのだ、という風に考えてしまうことは多い。しかしそうでもなかった。

自己というのは、他者と比較して相対化したところに説得力が生まれる。これは私のゼミの先生も言っていたことだ。つまり、日本は、西欧との比較をする機会が多くても、中国や韓国などのお隣さんとの比較の資料が少なかった。共通項と異なる部分との洗い出しをしてこなかった、だから日本のこの特徴はアジアとしてのものなのか、日本独自のものなのか、わからないことも多い。しかしこの理論で行くと、西欧かつ島国であるイギリスと自国を比較しなくてはいけないようだが。

何が言いたいかというと、中国は大陸としての自覚を抱えた大国だった。同じアジアでも違うことは多くあったのだ。この論理は明らかに矛盾を持っているし、未熟だし、見識が偏っている。でもあえて自分の未熟な理論を課題として残しておこうと思う。文化を語ると相対性と客観性の壁にぶつかってうまく論じることが難しいなあ。しゃべりすぎた、この辺にしたい。

 

『異文化理解』全体として感想

留学の「前」に読むべき一冊

 

さて、青木保著『異文化理解』を読んでみた。高校時代に中途半端に読んだ本の読み直しだ。この本も、文化を語ることの難しさをあらわにしていた気がする。読んでいる途中でさっきと言っていることが少し矛盾しているような、そんな感覚になったり、まとまった結論の汲み取りが難しいと感じることがあった。しかし。多くの内容が私にとっては当たり前のことであり、また中国に留学をした理由そのもののようなものであった。個人的には、留学に行った後よりも、留学に行く前に読むべき一冊だ。どのような目線で異文化とらえるべきで、またどのようなプロセスを意識して異文化を体験し、理解していくことができるか、その考え方の道筋であるといえる。

ちなみに、私が読んだのは、2013年に20版が発行されたものだった。七年たったという点から、その当時の社会状況と各国の立ち位置、そして今との変化や変わってない部分を感じとる点で面白かった。

 

『異文化理解』全体概況

 

文化は、21世紀に入ってより一層意識していかなくてはいけないものとなってきた。

人は生まれ育った文化から抜け出しがたく、同時に異文化と絶えず出会わなくてはいけない宿命にある。日本は、非常に開かれた受容性と同化を持つ一方で、消化、閉そく性という性質も並立していて、それが国際化で苦しんでいる理由ではないかと考える。

 

異文化へのあこがれ

 

「異文化に対するあこがれ」は近代化、現代化の原動力となってきた。それは国全体としても言えるし、個人個人に対しても言える。異文化は、それに対するあこがれ、好奇心を媒介にして、社会や個人にある種の活力を与える。そしてそれは現在でも与え続けている。

しかしそこにはあこがれと同時に、断絶や軽視も存在してきた。様々な異文化のあこがれを何によるのかを冷静に判断するとともに、軽視してきた文化に対しても、不当に貶めてとらえていることがないかを改めて検討しなければならない。良いか悪いかなどといった二面性で語るべきではないだろう。

 

自文化から異文化へ、その境界線を超えて入り込むことで理解をする

 

異文化を「理解」する急所は「境界の時間と空間」にある。異文化とは、境界の時間と空間を生きることを通して、象徴的に理解される場合が多い。(つまり、相対化して初めて異文化と自文化が見えてくる。ということは多々ある。)

常とは違った時間とか空間を意識して生活しないと、異文化は見えてこない。異文化を理解することは、自分の文化の殻から抜け出して別の文化の殻の中に入ることである。

そして、異文化を「体験」するということは、異質な時間と空間を体験することにほかならない。

このようにして異文化を理解することによって、事物を視る目が硬直せず、緊張しきった心が穏やかになり、豊になるだろう。

 

儀礼を見ることの重要性

 

儀礼には、その国の現代の状況や歴史、文化の様態があらわになる要素が多いため、儀礼が象徴するものは異文化理解へのカギである。

儀礼を見て、その儀礼を理解しようとしていくと、その社会のある構造が見えてくる。

 

先入観と偏見、ステレオタイプの危険性を理解しておく。

 

マスメディアはステレオタイプを増幅する作用を持ってきた。マスメディアの異文化理解と表現の仕方には注意を払った上で受容すべきである。

また一方で、ステレオタイプが生じることには、その印象を植え付けてしまう理由や要素が自国にも少なからずあるというのも事実である。もし、自分がその典型にあてはめられてしまったときには、その理由を探ることで双方の異文化理解へ一歩前進することができる。

もう一つ、メディアが短く報道する中には、説明するには長い、さまざまな時代背景や文化的背景が絡み合っていることを知らなくてはならない。早い情報のみに頼ってはならない。

 

リーチの文化理論

 

文化におけるコミュニケーションには三つの段階がある。

一、信号レベル

体温調節、危機回避、衣食住など、生物レベルでの段階、多くの人間がお互いに理解できる領域。

二、社会レベル

交通やマナーといった社会的習慣や取り決めの段階。学習によって理解できる領域。

三、象徴レベル

信仰や行動様式や価値観などの、文化的な中心部のこと。外部のものにとっては極めて理解するのが難しい領域。

 

異文化を理解していくにはさまざまなレベルがある、そしてこの三つが総体して異文化を形成している。これらが混ぜ合わされて、人々の言葉と行動に意味づけをしているのである。

三つ目の象徴レベルは、外の人間からははっきりと映らず、よくわからないため、非常に理解が困難な部分である。そしてこの三つ目の象徴レベルを理解することが、異文化を理解する上で大きな困難であると同時に、大きな課題となっている。

 

文化は混成している

 

文化というのは、純粋で純度100%なものだと解釈しがちである。しかし実際は多くの混合と混成がある。異文化と自文化の場合、多くの共通項と違う部分があるということを見ることが重要である。

また、現代の文化は特に混成が進んでいるが、この混成の度合いやあり方を見ることに文化の理解の糸口がある。

 

最後に、自文化を見つめなおす、ということも異文化の理解の大きな手掛かりとなるだろう。

 

 

著者の内容はこのようなものである。前もっていうが、要約のプロではないし、要約は大学受験の課題にもなるほどのものであることからわかる通り、必ずしもこれが著者の論点に準しているとは限らないので、実際に本書を読んでほしい。

 

すごいバカな話だが、中国に来たばかりの時、自分は中国人になれるかもしれない、とさえ思っている節があった。見た目としては同じアジア人だからいけるだろうと思っていた。しかし、それこそ、見た目が似ているなら同じようなものだろうといった、アジアと西欧を大きく分けたような浅はかさをぬぐい切れていない証拠だったと今では認めたい。実際、中国人の動作や思考、文化的な背景を見ていくうちに、日本と中国は大きく異なる文化を持つ「異文化」であり、完全に溶けきることはできない、日本人はやはり日本人なのだ、ということを知った。

日本人が日本にいる中国人に対してまだ十分な理解が無いのは、もしかしたらまだ日本のことをある意味でアジア人だと思っていて、日本人の常識をあてはめているからなんじゃないか。

 

それと、著者が途中途中に、中国語や中国文化に対する教育を日本でも行っての良いのではないだろうか、という意見は、私も思っていた部分が大きい。中国語は、英語を学習するときとはまた違った感触を得る。日本語の存在をより深く考えさせられる不思議な言語だと思う。

 

リーチの理論でいうと、私はまだ中国を理解できていない、外国語大学で中国人との接触はかなり少ない方だった、これはまだまだ課題だ。最も、本当に理解できるのは永遠にネイティブのみであろう、と私は思う。完全な理解ができる日は、来ないだろう、とさえ思う。その時には、自国日本に対する文化的理解を失っていると思う。だから私は、”日本人として”、異文化を理解していきたいと思う。