ただの愚痴(男女が並んだらすぐ恋愛話になるこの世が嫌いだ。)
これまで淡々とブログをやってきたくせに急にどうしたと思われるかもしれませんが、ここ最近の鬱屈とした気分がどうしても許せなくなってきたので、ここで失礼しますね。最後の更新日からの隔たりを見てわかって頂けたらと思うのですが、かなり限界というか、吐き口を探して探してこの過去のアカウントに戻ってきたのですみませんね。
漫画の世界でもなんでも、相手の告白を断るときに「ごめんね」とか「その気持ちは受け取るよ、ありがとう」と言える人間が昔から理解できない。私は中学生の時、友達を思っていた男子から告白され、「ふざけんじゃねえよ!」と上履きで思いっきり相手をぶっ叩いたことがある。クラスの皆が注目していた。嫌だった、心底。「なんで告白なんかしやがったんだこの意気地なしが!」と思った。お前のせいで私とお前はもう友達じゃいられなくなるじゃないか!教室で二人で仲良くしていたら、片方はそういう感情がある中で遊んでるってことになるじゃないか!もう二人はさっぱりとした友人じゃいられなくなるんだよ!ふざけるんじゃない!と。ーーーー
それからもう何年たったかわからないけど、私ももう大人になったし、意外にも人並みにお付き合いとかもしたりして、もうそういう感情からは卒業できたのかな~と思っていましたけど…最近の感情はどうもまた思春期のようにくそみたいな複雑性をもってこじらせているらしい。ちなみに他人に当たっているように見えるかもしれないけど、同時に自分がこんな負の感情を抱えることに常々自己嫌悪を感じてひどい。
それと余談ですが、こういうぐちゃぐちゃした思いに正論をかましたりするやつもやめてほしい。論文の世界で生きてるわけじゃあるまいし、それにいちいち裁判判決なみに正当な理由で喜怒哀楽をぶちかまさないといけないなら、終にこの鬱屈した思いをぶつける居場所は消滅するので、心の深淵くらいここで叫ばせてくれ!!
さて話は現在に戻り、私は一応大人になった。問題はいわゆる同僚のある男性、その人との関係性にむしゃくしゃしている。男女の友情は通用しないんですね、ハイハイそうですか、それが通用しないこの世自体を憎んでもええか?
これまでは私と男性Dとカナダ人の女性Sの三人で仲良くしていて、飲みに行くこともあって楽しい日々だった。その頃からまあ適当な人に「二人で付き合えばいいじゃ~ん」とか「絶対いい感じなのになあ~」とかやれなんだと言われていた。初めてそういうことを言われたときは「はい出ました!!!!!!男女!!!!=恋愛!!!さようなら世界!!!!」と心乱されていたが、それも慣れ(?)てきて適当にスルーするようになった。
だがことが大きく動いたのは最近のことだ。友人Sは帰国した。悲しかった。好きだった。その友人が帰ってしまったのだ。カレンダーを見るたびに悲しかった、ため息をついた。
「成田まで来るなんてクレイジーすぎる」
と友人Sに笑われながらも、私は高い交通費を惜しまず一刻も早く会いたくて会いたくて会いたくて、遅刻なんかしてないのに直通線に向かって駆けた。あの頃の自分に戻りたい。
私と友人Dが残された。
そしてそのあと何回か飲んだ。そして友人Dから決定的な連絡が来て、私はもう耐えられなくなった。
「クリスマス時期にどこかで会えませんか?」
終わったと思った。
中学の時の上履きでひっぱたいたあの日を思い出した。制服のシャツに私の上履きの茶色い痕が残っていたあの元友人の背中まで、記憶がフラッシュバックして思わず「ふざけんじゃねえよ...」と頭を抱えた。
男女の恋愛は通用しないんですね。さようなら
男女が二人並べばすぐ恋愛しないといけないんですかね!?悲しいです。この世が嫌いです。
もっと言えば、私はレズなのかもしれない。正直男性である友人Dよりもずっとずっと友人Sの方が好きで好きでたまらなかった。
友人Sが帰国する日、一緒に大きなキャリーケースを抱え込んで航空機に飛び込みたかった。
友人Sと次の日も一緒に過ごせるなら、レズになったって良かった。
これは誰からも強要された精神じゃないし、誰から何か言われてこうなったわけでもない。だから私はこの気持ちの方がずっと気持ちがよかった。
嫌いだ、この世界が嫌いだ。日本が嫌いだし男女という存在も恋愛もセックスも全部嫌いだ。彼氏なんかほしくないし、正直自分の好きな自分居続けられるなら一生結婚なんかしたくない。
これを読んでる人は、この毒気を他者に相談することがどれほど困難なことかを想像してほしい。大抵の人は恋愛に関心があるどころか彼氏もちの人が多いんだ。そんな中で私一人こんなこじれた考えを持ってるんだ。まして彼氏がいる人に対して「彼氏なんて要らないしこの世界はくそだ!」なんて叫んでいったい何になる?相手を傷つけるだけだ。だから私はいまここにいるんだ。
どうか、否定はしないでほしい。もう否定は十分自分の中で反芻しているから。ただしもし少しでも賛同してくれるならその思いを教えてほしい、それが甘えだと言われようと、いま私に必要なのはチョコレートであってダイエットフードでも健康に憂慮した野菜ではないから。
どうして仲のいい友達でいられないんだろう。どうしてただの友達でいさせてくれないんだろう。
でも相手もテレパシーが使えるわけじゃない。この気持ちはいつか伝えなくてはいけない。
くそだ、世の中はくそだ。なんて生きづらいんだろう。
第二次世界大戦は”たった”6年の出来事だった
コロナで地球規模のパンデミックが起こり、解決の兆しが見られない状況が続いている。
夏休みが始まろうとしているのに、自由に外食をすることも、遠出をしてキャンプに行くこともはばかられる。今年の梅雨は特に長く、私たちの気持ちをまるで映し出すかのようで、じめじめとした灰色の空の日々が続いた。ようやく晴れて、夏空が見えた。30度を悠に超える気温、東京は暑い。友達と会うにもマスク着用は必須だ。外した時の顔にべったりと汗がついていることに気が付く。
どこまでこのウイルスに気を付ければよいのか。
今の現状はこうなのではないか。
第一波の二月初め、得体のしれない異物が非感染前の島国に入り込んだ。わからないものへの対処法に試行錯誤する。名の知れた方も亡くなった。コロナは死ぬ病気だ。多くの人が悟った。
しかし、アジア人の致死率が低いことが分かってきた。自粛を行ったことによって、日本では大した被害が出なかった。医療も大きな崩壊は見られなかった。
コロナは大した物ではないのかもしれない。多くが感じ始めた。
むしろ経済のひっ迫に焦点が移った。この天秤なら、経済の方が維持に値する、と、いうことか。
飲食業を営む人々をはじめとして、営業時間の短縮により生計を立てることが厳しくなってきている。
このコロナの渦中、この日々に収束は訪れるのだろうか。
明日を過ごすことも危うい、そんな人も少なくないのではないか。
このコロナは永遠にすら感じてくる。
私は第二次世界大戦を経験していない。
ドラマ、映画、写真、記念館、平和公園、記念碑、、、その大枠を知っている、頭での理解に努めることしかできないが、中国で大旅行をして際にも、大連や旅順、西安に訪れた経験が肌でなんとなくピリピリとさせるものを感じた。
それがいかに、残酷で非人道的で、二度とあってはならないことであるか、ということを感じ取っている。
そして人々の生活がいかに苦しかったか。
主食は芋、食べる物も少ない。明日死ぬかもしれない、そんな日々。
もし、私が大戦の真っただ中に生きていたら…
堪え切れただろうか。生き延びれただろうか。収束は必ず訪れるという希望を持てただろうか。
戦争は突然終わった。8月6日天皇陛下のラジオでの放送によって。
今でも長く、長く、忘れてはならない戦争の記憶は、1939年から1945年の出来事だった。
6年、小学生が入学して卒業するくらいの期間だ。私の小学時代は幸運にも大きな問題もなく終わった。それゆえに一つの淡い記憶だ。
短いととるか長いととるか。。
戦争が終わって、人々は復興に向かった。もはや戦後ではない、という一文が経済白書に掲載されたのは終戦から10年後。
10年で戦争の面影は遠のいた。元の水準への回復を目的として経済活動は終わり、人々は近代化へ、つまり豊かさの為の経済発展へと移行していくことになる…
戦争を軽く見ようとしているわけではない。
ただこのコロナの渦中で苦悩に立たされている私を含めたすべての人へ、もう一度考えてほしい。
現代の私たちの生きる力を絶やさないために
はっきり言うと、死なないでほしい。
気長な未来になってしまうかもしれないけれど。
必ず終わる日が来ることをあきらめないでほしい。
戦争は突然終わった。6年という年月を経て。どんなに辛くても、終わった。
この先の感染者数とか、何が何たらとか、下手な未来予想の占いとか、そんなのどれもしったこっちゃない、知ったこっちゃないのに、収束するか否か、ということだけは、実は”絶対に”収束する、と言ってもいいはずなんだ。正直私も自身はないけど。
でも、自分の魂とその魂を入れているその身体だけはそこにそのまま置いておいてほしい。そのままにしておいてほしい。船と一緒で、それさえあれば、渡したちはどこへでも行ける。それがいつになっても。何かに縛られているかのように見えて、私たちは案外自由なのだ。
少し熱が入りすぎた、自分をごまかしながら、励ましながら、でも時々やっぱりくじけそうになりながら、今日も生きています。
留学が終わりました
先日最後のテストが終わり、ついに留学が終わりました。
これから新たな目標にブーストを上げるために、ここでヒタヒタに振り返っていこうと思います。
中国に来たばっかの時のことは今でも覚えています。
八月末の北京はまだ残暑が厳しく、刺さるような日射とガタガタだけど広い歩道、农夫山泉をお供にサンダルでひたすら歩きつぶしました。
ホテルの人のルームサービスの人が来て、部屋のものを取り変えに来てくれたあの頃の緊張、そして换吗?という言葉を覚えたこと。
案内してくれてた中国人の友達が帰ってしまった後、臨機応変な対応ができないのに何もわからないような外界に出るのが怖くてずっとホテルにいたかったけど食べ物を入手せねばならんのでと緊張と共に外出を決意した日
母はバイバイする度に泣いてたけど私は泣いたら思い入れが強くなってしまうのでできるだけ軽くバイバイした。
あの頃のことを今でも覚えてる。初めて現地に着いたときの感覚は自由を感じた。
それからいろんなところに出かけた。週末は北京市内を一人で歩いた。帽子を買ったり眉毛をいじられたり月餅を買い占めた。
初めての週末だったか、潘家园で中国語値切りチャレンジをした。
初めての旅行は上海だった。パスポートの返済を気合で執り行った。学校の事務処理の人に無理やり言って手続きしてもらった。あの時は時間もなかったのでグーグル翻訳をそのまま手渡して読ませた。
北京に滞在して二週間で、もう高速鉄道に乗って上海に向かった。
高速鉄道に初めて乗ったのも一人だった。緊張と失敗への恐怖で始発の電車で高速鉄道のある北京南駅に向かった。手続きから行先など色々人に聞きまくった。隣に座ったおじさんには中国語の勉強してる様子をめっちゃ見られた。
中国人との交流の少なさに危機感を抱き、バスケ部に申し出た。ユキさんのおかげで助けられたが、緊張で中国の人とはほとんど仲良くなりきれなかった笑
10月は日本人との交流会で人脈が増える月だった。北京で有名な日本人向け雑誌を書く人と知り合った
日中病院に行って医療の現場を見た。
日本人だらけの懇親会でうんざりしていたらなにやらおえらい日本語ペラペラの中国のおじさんに気に入られて二人だけで二次会した。なんてこともあったな
でも交流会では他に中国の友達もできて、一緒に景山公園に行ったのはとても楽しかった。
寮で勉強してたら内モンゴルの不思議ちゃんと勉強友達になった。突然タピオカ買ってくれたりしたときは驚いた笑
バスケの子と勇気を出して練習後のご飯に行ったら思ったよりもずっっと楽しかった。大きな一歩を踏み出した日。
あと、理工大学でバスケに行った人と天気の子見に行ったりして。
12月は天津に行った。福原愛ちゃんをみた。世界の終わりに会えた。中国で日本の有名人に会えるミラクル
髪の色を抜いた。夜8時に始まって美容院の異文化的サービス精神のおかげで朝4時まで染めてた。この恩はたいてい忘れない。
直後インフルエンザにかかった。全力で生活をしすぎたのかもしれない。
新しい友達付き合いが増えた。バスケがだいぶ輪を広げてくれた。
理工大学でバスケをした。そのあとハチャメチャにおいしいものを食べた。火鍋や餃子や串焼きなどなど、、、、クリスマスの日にはケーキを食べた。
部屋の子の本気のクリスマスのおかげで部屋でのクリスマスもたのしかった、装飾をタオバオで買って部屋の子を飾り付けをした。朝起きたらプレゼントがあったときは驚いた。良い部屋だった。みんなワイルド自由人で良かった。
一月は息切れするほど旅行に行った
強い経験を重ねたのはやっぱり旅順大連かな。
中国語力の乏しさのせいで中国の人と一緒に廻れるチャンスを逃したときは自分の足りなさを責めた。タクシーが往復をしてくれなくて、真っ暗のなか山の頂上まで案内されて、二人で恐怖とともに駆け下りたのは一人じゃできないことだった
こうやって振り返ってみると、もう少し中国の人と友達になれたらよかったなと思う。笑
でも案外多くはなくても大事な友達も増えたし、それはよかった。
日本に帰国してきた。帰ってきてしまった、という気持ち
日本はのんびりした国だ。狭くて暗い繁華街を、静かでしっとりとした行灯の道を、人々がゆっくりと無口で歩いていくような。そんな感じがした。
帰宅直後もそんな風景が夢にも出てきた。
夢でそんな風景の中を歩いていたら、知り合いがいた。
夢の中でだけどそれが初めて会った日本帰国後の友達のような気持ちになった。
日本に帰ってきたのだ。
戦争に向かった兵隊が志半ばに帰ってまいりました!と言いながら敬礼をするような気持ちだ。
コロナから逃げてきたのだ私は。ちょっと悔しい。
でも良い。また中国に行きたいなー中国に行ったら何しよう
って考えたときに、タピオカと美味しいものと北京市内でまだ行き切れていない観光名所に行くこと、ぐらいしか案外頭になかった。
その辺のことなら留学じゃなくてもできる範疇だ
留学は10カ月しかない!とスタートからカウントダウン状態で始めてた、死ぬ前にやりたいこと全部やる、くらいのペースでやりたいこと全部やってた、おかげで、この半学期で思いつくことは大体やってたということらしい。
また行くから。
とにかく、語学、
初めて口語で発表があったときの内容テーマは「私の○○の理由」
私はスポーツが好きな理由。を発表した。乏しいほどの語彙力で作文中最も難しかった言葉は「健康」。この言葉をドヤ顔で述べた。
こんな私を評価してくれた人がいてくれたおかげで蹴鞠をゲットした。
最近は、世の中の社会現象、イノベーション、そしてそもそもイノベーションとは何か、天才とは先天的なもか後天的なものか、などといった概念的な話をすることができるようになった。
概念的な話をすることは難しかった。言葉って使い慣れているとごまかし方もうまくなってくる。結局何言ってんのかよくわかんないこともある。それに大学受験までに読んだ評論はみんなフワフワしててよくわからんからそのよくわからんところが問題になって出題される。そんな文章に触れてるとなんかむずかったらしい文章の方が格好いいのかと思うようになってさえくる。
けどきざったらしい文章を書けば先生は「意味わからん(ここまで直球でもない)」と言ってくる。どういう意味?と聞いてくる。すると意外と自分も何言ってんのかわかってなかったりする。
遠まわしの言葉は通用しないのだ。そうでなくても使い慣れていない言語で概念的な話をするのはもっともっと難しい。そうするつもりなくてもよくわかんないままとりあえず書き出していくと、気づけば勝手に意味不なスクリプトになっていく。それか具体例だけ思いついてアレのこと書きたいなーーってなって結局何の話してんのかわかんなくなったりする。
つまり、脳内の思考というのは、伝える段階でどんどんどんどん理解しづらくなっていくものなんだ。
脳内の思考>言語化>発信>相手による解釈
という段階のうちにどんどん自分の伝えたかったものが100%だったとして、80%、40%と落ちていくんだ。だからその為には、自分の脳内の思考はまず絶対に鮮明でなきゃいけない。そしてその次の言語化の部分も同様にめちゃくちゃ鮮明でなきゃいけない。
具体的に文章を書く上では、結論だけは鮮明にもっていないといけない。結論に向かって話を進めていかないといけない。それ以外の具体例や比喩や前置きはすべて結論をわかりやすく強化する為の補助でなきゃいけない。そうすることで余計な脱線や理解不能な主語述語のつながりを生むことがなくなるし、先生にどういう意味?って聞かれたときに全部が目的のある文だから説明できるし更に捕捉もできるようになる。
ごまかしやあやふやなことを言って雰囲気でなんとかすることはできない。ましてや外国語だ。そんなことやってる場合じゃない。外国語をつかって伝えるために意識するようになったことだ。
特にテストでは結論をとにかくはっきりはっきりと述べるようにした。そして自分が言いたいと思うこと、一つなにか利益のあることを言いたいと思った。
例えば
イノベーションとは何か
イノベーションとは人間の想像力が生み出すもの。
今までのエアコンや携帯、ネットも百年前に新聞で未来の想像図として取り上げられていたものだ。
人間が作る者だから、逆に人間が夢みたことないものは生まれない。
だから想像力を失ってはならない。今この現代でも想像しているものが将来に実現するのだ。不可能であることを想像することをやめてはならない。
イノベーションとは過去の人たちの蓄積の先にあるもの。
過去にどんな天才がいてもiPhoneやパソコンを作れる人はいない。でもその時代その時代の文字通り「先端」の技術があって初めて今のiPhoneがある。過去の偉人が努力して発見してきた技術や理論があるからこそ私たちはその偉人達が何年もかけて発見したものを一瞬で学び、その先に行くことができるのだ。学校で学ぶということは、過去の凝縮を学ぶということだ。先に行くために過去の何千年もの努力を数年で吸収する、そしてそこからやっと先に立つ、だから学ぶのだ。だから私たちは学ぶことをやめてはいけない。
つたないが、
結論
理由
具体例
だからこうだ。という理論
こんな感じで述べていくようにしました。
難しかったです。
先生に文章に彩りがあり、見識があるといわれたことはうれしかった。
日本語だってごまかしていてはだめだ。はっきりと自分の脳内での結論をしっかりと持って適格に述べていこうと思う。
会話は、ネトチャイを始めた。
会話内容を録音して、復習、パソコンで打ち出して反復発声。
特に、先生の口癖をまねした。そうすると、ネイティブみたいな言葉のつまり方を勉強できる笑
そうやって口語は以前よりだいぶ自然になったと思う。
中国人が良く使うタイプの表現を以前よりかなり学びました。
教科書の内容もをのようなものが増えたし、その辺の勉強は楽しかったです。笑
それに、自宅にいるおかげでところかまわず中国語を発声練習ができたので、発音もだいぶ矯正されました。よくウィーチャットに音声吹き込んでそれがちゃんと中国語の文字変換されるかを試して遊び半分でやっています。先生が出してくれる宿題そのものも、教科書の朗読や自分の意見を録音するという内容だったので、自宅にいても口語が練習できました。
本当の中国人の自然な会話って、たぶんそれでもまだまだいろいろ潜んでるとおもうから、これから先はネット社会に潜り込んだりドラマとかコメディ作とか見ていきたい。
中国語の単語自体も。かなり語彙も増えたと思う、し、なかなか読める単語も増えてきたと思う!
これからは一日一つ中国の新聞記事を読んで中国語を勉強し、ニュースを動画で見て形式高い内容も耳に入っていくようにしたい。もちろんその合間合間に中国人のスラング会話も織り交ぜて笑
つまりこれから先はネイティブなメディアを利用して学んでいこうと思う。ということ要するに!
とにもかくにも!
夏来たばっかの時は初級からやり直したいと思ってた人間で、
目標は、来る前よりも少しでも良くなるように、と思ってやってたので
まあ目標自体そのものでいえばクリアしました。笑
語学は一度始めたらその沼とは一生お付き合いというわけで、
これからも婆ちゃんになっても中国語は続けていくつもり。たぶん
語学オタク感がすごい。
あとこれ書きながら思ったけど、
英語も同じように頑張れよ。
アドミュージアム 日本広告史から現代のデジタル広告の可能性
アドミュージアムでもらった日本広告史のパンフレットをまとめておこうと思います。
アドミュージアムは無料で見学できます。
江戸時代
町民文化が盛んだった中期から後期にかけて、商売繁盛と広告は常に隣り合わせの存在でした。それは現代の広告方法の礎のようなものが多かった。
江戸時代あの手この手の広告手段
①看板やのれん(ブランド)
見やすさ、目に留まりやすさ、そして理解のしやすさ
酒林 店先につるすことで新酒発売をしらせる。
飴屋なら飴の看板
筆屋なら筆を模した看板
その店舗の特徴が一目でわかるような看板が使われた。
②歌舞伎の劇中に広告(企業タイアップ)
『助六由縁江戸桜』は実在の店や商品名をさまざまなシーンに組み込んだ作品で、企業タイアップのようになっている。劇中にうどんや梅干し、酒のブランドを登場させた。
③チラシでの告知(マーケティング)
「引き札」という江戸のチラシが存在した。1983年日本で最初の引き札は江戸の越後屋から。越後屋は現金掛け値なし(現金正価販売)をはじめた。
④見世物(イベント)
イベントや見世物は当時から非常に人気があった。
イベントの告知にも広告は利用された。引き札や錦絵が人気で、イベントの地そのものも、広告の場であった。
⑥すごろく(ゲームアプリ)
絵双六は比較的手軽な娯楽として民衆によく遊ばれていた。
店の名前や商品が織り込まれた広告用のものがあり。それらは景品として配られ、広く楽しまれた。遊びの中に宣伝を入れたゲームアプリさながらである。
⑦錦絵(ファッション)
江戸の錦絵はまるでファッション広告のようであった。錦に大胆に描かれる女性の姿。纏う衣服は流行や新作のデザイン。錦絵を見てこの着物が欲しい、とわくわくした女性が多くいたに違いない。
⑧有名人による推薦(SNS)
幕の合間に市川團十郎と岩井紫若が二人でポーズをとり、歯磨き粉の紹介をする。
まさに生CMの様子である。歌舞伎を見に行った人はこれを目にし、人々の間で口コミによって広がっていった。インスタグラマーのようなものでしょうか。
⑨おまけ品
当時既に木版印刷が盛んであり、出版活動にも拍車がかかっていた。
錦絵や絵入りの小説本を店が独自に制作し、景品として配っていた。
仙女香
仙女香はどんなメディアにもあざとく入り込んでくるクロスメディア戦略をことごとく行ったブランドで有名。「仙女香やたら顔だす本のはし」と読まれる川柳もあったという。
江戸の広告仕掛人
平賀源内 キャッチコピーに優れた発想力をもった。土用の丑の日にウナギを食べる習慣をつけた当該人。
式亭三馬 浮世風呂などの滑稽本を出版。その一方で化粧水や売り薬を発売したり、広告を手掛けた。
蔦谷重三郎 出版社のオーナー的存在。新人作家の発掘、プロデュースを行った。
十返舎一九 東海道中膝栗毛や諸国道中金のわらじなど、ベストセラー小説をいくつも手掛けた。文筆収入だけで生計を立てた第一人者。
山東京伝 オリジナルの紙たばこ入れを自らデザインしたマルチクリエイター。
明治以降の広告史
明治
時は文明開化。印刷技術とメディアが発達した。新聞や雑誌というニューメディアが登場し、それらがメディアの中心になっていく。広告を取り次ぐ広告代理店が誕生し、新しい段階に移行していった。
「広告」という言葉もこの時代に登場した。
たばこ産業では国産品と船舶品の広告合戦があり、景品や街頭宣伝などさまざまな販売促進のアイディアを競った。まるで現在の携帯会社の広告宣伝合戦のようだ。
また、この時代は内国勧業博覧会が盛んに行われた時代でもある。
欧米の文化を伝え、国内産業を広めるために、明治新政府は殖産興業というスローガンを出し、全国各地から産物や名品が登場した。
このような博覧会は近代日本のショールーム的役割を果たした。
大正
経済発展、都市化が進んだ。時代は大衆消費社会へ。
大正モダニズムが開花し、いまでも愛されるような広告が多い。
西洋から写真と印刷技術が導入され、広告はより技巧的なものになった。
企業の中にも宣伝を専門とした部署がおかれたり、スタークリエイターが存在したりと、更にアイディアを競うようになっていった。
片岡敏郎による赤玉ポートワインのポスターはヌードの女性が一目を引く衝撃的なものだった。白黒の写真に一色だけ鮮やかに澄み切った真っ赤なワインがよく映える。
また、この時代からカルピスなどをはじめとした商品が存在した。
大衆消費社会で景気も好調。雑誌も多く創刊された。女性や子供むけの雑誌が多数発売され、その中にも広告メディアとしての力をもつようになった。
昭和
戦時
昭和初めは大正モダンから昭和モダンへの移行があり、西洋文化を多く取り入れ、国際性とモダニズムの風潮が見受けられた。和服から洋服を着た広告が増える。
観光業も盛んになった。船による海外航路や鉄道網などのインフラが整備されていき、観光のPRも行われるようになった。
やがて時代は戦争へと突入。広告は商品の販売促進をするものは減少、戦意高揚のスローガン的要素が増えていった。このようにして広告にも冬の時代が訪れた。
戦後
経済の立て直しが始まり、やがて、もはや戦後ではない。と言われるまでの発展を遂げていく。
民間テレビの放送が開始され、テレビが広告メディアの主流となった。駅や繁華街の街頭テレビに人々が集まった。
1964年にはオリンピックが開催されたこときっかけに家庭でのテレビ普及率が向上。マスメディア中心の時代になっていく。ちなみに東京オリンピックにて初めてシンボルマークが制定され、また公式ポスターに初めて写真を採用した。
大量生産、大量消費が本格化していき、広告に多様性が生まれていく。
広告も再び商品の促進販売によるものが増えた。
マイカーブームが起こり、車の広告が登場。また、日焼けをした健康的な女性という、新たな女性美を表現した広告も登場した。
日本で初めての万国博覧会が大阪で開催された時代でもある。
そして、テレビCMはカラーになっていく。大量生産、大量消費の時代に疑問を投げかけ、人間らしさの回帰を問われるようになっていき、モーレツからビューティフルへ、という時代の新たな変化が起き始めた。
そのほかにも、キャラクター、パロディ、広告コピーなどの利用、オイルショック後の省エネ思考、女性の自立、感性に訴える広告といった多様な広告が創造されていった。
明治以降の重要広告立役者
福沢諭吉 時事新報では早くから広告を重視し、商人に新聞広告の勧めを説いていた。
岸田吟香 新聞で商品記事を書くなど、巧みな宣伝活動を展開。錦絵の中に宣伝文を組み込むなど凝った広告を世に出した。
杉浦非水 三越の社員として㏚誌の表紙デザインやポスターで一世を風靡した。アールヌーボを取り入れた曲線的で美しいデザインじゃ大正時代のモダンなイメージを促進した。
片岡敏郎 森永製薬やサントリーの広告で活躍した。赤玉ポートワインが特に有名である。
岸本水府 福助やグリコの広告で知られるコピーライター。福助の漫画広告やグリコの豆文字広告、展覧会など、新しい企画を多く生み出した。
吉田英雄 広告は科学と芸術の融合であるという信念をもとに、民間ラジオ、テレビ放送局の設立に尽力した。
亀倉雄策 1964の東京オリンピックのポスターをはじめとしたさまざまな企業ロゴを手掛けた昭和を代表するデザイナー。
やがて、時代はデジタルへ。
ここからは自分の考察です。
現代の広告の幅はどこまで広がっていくか。
看板、折り込みチラシ、回覧板、イベント、ファッション雑誌、今でも多くの人目のつくところには広告があります。
テレビのCMもシリーズもので注目を集めたり、ちょっとしたパロディのCMもあります。エーシージャパンのような代理広告もあれば、ジャパネットタカタのようなテレビショッピングもいまだに存在します。
通勤するというその一つの流れの中にも、最寄りまでの道の店、駅のホーム、電車の中、都心のビル、いろいろな場所に広告があります。
広告は電子化していき、何年か前に山手線の電車広告がすべて電子広告に変わるなどの変化もありました。
またスマートフォンの普及により、私たちの手元には常に自分のためのデジタル機器を持つようになりました。これは、常に迅速な広告を目にすることができるようになったというだけでなく、広告を目にする機会がさらに増えた、ともいえるでしょうか。
無料アプリはlog in時など、ある特定の動作の中に広告を組み込んできたり、動画アプリでは動画の前にCMが流れてきます。また逆に、CMを飛ばして楽しめることを有料コンテンツとしてサービスを展開しています。
しかし、残念ながら、受け手である自分の感覚としては、このような広告は非常に煩わしいものと感じます。広告に却って嫌悪の感情を持ちます。これは本来あるべき広告ではないと感じています、商品にもマイナスのイメージを持ちかねません。
インスタグラムでもストーリーや投稿の間に広告を挟んできます。最近ではインスタグラマーというインフルエンサーを利用した広告もあります。これらは自分の信頼している人や、インスタ上でのセンスに共感を持つ人々に効率よく紹介することができるので、購買意欲も上がり、耳を傾けようとする人も多いでしょう。それぞれの媒体に、それぞれ趣向にの似た人たちが集まるので、その点でも購入につながりやすいと思います。
しかし、難点としては、見つけられない人や、つながっていない人の目にはつかない、限られた人にしか広告効果がなく、個人的な口コミに近く、少しばかり効率が悪い点もあります。
一人に一つ自分のデジタルがある。
私はこれによって、広告は今よりもう一つ新しい展開を見せることができると思います。例えば、広告は見せる相手をさらに選べるようになっていくと思います。
ターゲットを正確に絞った広告を見せることができます。
最近は、「参加する」広告も増えてきました。例えば、Twitter上での本田圭佑のじゃんけんチャレンジなどです。リツイートをすることで一目につく機会をさらに広げていきます。
インスタグラマーやTwitterのリツイートのように、今では消費する側だった人たちが、広告の役割を果たして発信する立場に逆転する、という状態も起き始めました。つまり、広告の大衆化、ともいえるのでしょうか。
デジタル上での広告はどんどん散漫としていき、良し悪しに問わず人目に触れるようになりました。これによって、受け手も情報を選ばなくてはいけないので、広告を見て興味を持ったという感情から、買うという行為までの間に距離が生まれてきていると思います。
消費者に的確に近づいていく時代
中国のアフターデジタル的な思考ですが、今消費者はオンとオフを自由に、境界なく行き来する、そんな時代になったともいえます。
タオバオがコンビニとネット販売の両方を用いて顧客の興味や注目度のデータをとる、といった方法をとっているように、常に調査と実行を早く移行できる世の中になりました。その商品が気になって、どの商品は手に取って戻したのか。人々の興味から、購入後の顧客データまで。選べるようになってきています。つまり、趣向の似た人を、インスタグラマーを経由しなくても見つけることができるようになる。年齢、性別、健康状態などから相手が欲しくなるような広告を届けやすくなるでしょう。
これらの変化が、新たなヒントになるのでしょうか。
中国のデジタル配信の面白い話
ちょっと違う話になりますが、中国の話で、SNS上で少し有名な人が、自分のおすすめの商品を生配信をすることで、多くの人の目に触れさせる、というビジネス領域がある、という話を聞きました。日本でいうと、インスタグラマーが商品を紹介する要領でしょうか。しかし、生配信である、というのがデジタルとアナログを繋げることを得意とする中国ならではだと思いました。というのは、生配信をすることで、見ている側はサイズや質感、着け心地など、気になる点をその場で聞くことができます。配信する側も受け手に売れてほしいので、どんどん発信します。衣服を紹介するならば、配信者が実際に試着してみて、自由に動いてみたりします。面白いのは、靴を紹介するといったときには、配信者の背景にたくさんの靴が並べられていて、それぞれに番号が振られています。コメント欄に番号を言うと、配信者がその中で特にリクエストが多いと感じたものから紹介していきます。まるで目の前で買い物をしているかのようです。ほしいと思った人はその場で決済をすれば、あとは荷物が届くのを待つのみです。中国でよく利用している人によると、決済をした人がどんどん通知されるので、自分も買いたくなっちゃう、と言ってました。
なぜ、視聴者はわざわざそこに集まるのか。これはテレフォンショッピング寄りの商売方法かもしれません。というのは、その配信期間中に購入すると、定価よりも少し安く購入できる、というのです。元から気になっている商品を紹介する、なんてことがあったらきっと見に行ってしまうことでしょう。中国の割引精神には日本にはないものがあります。そして、デジタルとアナログの中間のような、目の前で買い物しているようにも感じるし、デジタルで買うことのメリットもある。そんな商売が中国は比較的得意に見えます。
これも新しいヒントになるかもしれません。
デジタルもアナログもすべて等しく人々が参加する。
平成が終わり、令和の広告はどのように広がっていくでしょうか。
青木保『異文化理解』
今季のコロナの要因で半年となってしまったが、中国に留学に行った。しかし、中国留学といっても外国語大学での中国語学習が主だったので、どちらかというといろんな国籍の人と触れ合うことが多かった。中国そのものとの文化交流は今一つ物足りていない事実は認めなくてはいけないけれど、その一方で西欧、中東、いろんな国とのふれあいはより一層強い経験となった自身もあり、異文化というものには正面から対峙していったような気がする。異文化というのは、日本のことでもあり、他国のことでもあると感じる。
そして、帰国して、就活を進めている友達から質問が来た。
「多様性の尊重について自己の経験を述べよ」との質問にどう答えるか、という質問だった。
私はこの質問に一日中考え込んだけど一つの沼にはまってしまって抜け出せなくなった。多様性の「尊重」ってまたずいぶんと偉そうな聞こえじゃない?尊重というとどうも、自分より立場の低いものを救い上げるような聞こえがする。多様性を「知った」経験はたくさんした。でも尊重したというよりは、理解をしたからその理解に従って対応を意識して行動しただけだ。ご飯に行く相手が肉を食べない人だったからイスラム料理をメインにしたレストランに行っただけだ、何も立膝ついて手で拝み上げるような尊重するような立派なことはしていない。
この質問自体が日本の多様性に対する見識の狭さを映し出しているような気がして、どうもこの質問を投げかけた企業に不信感を覚えてしまった。考えすぎかしら?
日本は島国だ、というのが半年の留学の結論の一つだ。日本の国風は、アジアだから、つまり西欧ではないからこうなのだ、という風に考えてしまうことは多い。しかしそうでもなかった。
自己というのは、他者と比較して相対化したところに説得力が生まれる。これは私のゼミの先生も言っていたことだ。つまり、日本は、西欧との比較をする機会が多くても、中国や韓国などのお隣さんとの比較の資料が少なかった。共通項と異なる部分との洗い出しをしてこなかった、だから日本のこの特徴はアジアとしてのものなのか、日本独自のものなのか、わからないことも多い。しかしこの理論で行くと、西欧かつ島国であるイギリスと自国を比較しなくてはいけないようだが。
何が言いたいかというと、中国は大陸としての自覚を抱えた大国だった。同じアジアでも違うことは多くあったのだ。この論理は明らかに矛盾を持っているし、未熟だし、見識が偏っている。でもあえて自分の未熟な理論を課題として残しておこうと思う。文化を語ると相対性と客観性の壁にぶつかってうまく論じることが難しいなあ。しゃべりすぎた、この辺にしたい。
『異文化理解』全体として感想
留学の「前」に読むべき一冊
さて、青木保著『異文化理解』を読んでみた。高校時代に中途半端に読んだ本の読み直しだ。この本も、文化を語ることの難しさをあらわにしていた気がする。読んでいる途中でさっきと言っていることが少し矛盾しているような、そんな感覚になったり、まとまった結論の汲み取りが難しいと感じることがあった。しかし。多くの内容が私にとっては当たり前のことであり、また中国に留学をした理由そのもののようなものであった。個人的には、留学に行った後よりも、留学に行く前に読むべき一冊だ。どのような目線で異文化とらえるべきで、またどのようなプロセスを意識して異文化を体験し、理解していくことができるか、その考え方の道筋であるといえる。
ちなみに、私が読んだのは、2013年に20版が発行されたものだった。七年たったという点から、その当時の社会状況と各国の立ち位置、そして今との変化や変わってない部分を感じとる点で面白かった。
『異文化理解』全体概況
文化は、21世紀に入ってより一層意識していかなくてはいけないものとなってきた。
人は生まれ育った文化から抜け出しがたく、同時に異文化と絶えず出会わなくてはいけない宿命にある。日本は、非常に開かれた受容性と同化を持つ一方で、消化、閉そく性という性質も並立していて、それが国際化で苦しんでいる理由ではないかと考える。
異文化へのあこがれ
「異文化に対するあこがれ」は近代化、現代化の原動力となってきた。それは国全体としても言えるし、個人個人に対しても言える。異文化は、それに対するあこがれ、好奇心を媒介にして、社会や個人にある種の活力を与える。そしてそれは現在でも与え続けている。
しかしそこにはあこがれと同時に、断絶や軽視も存在してきた。様々な異文化のあこがれを何によるのかを冷静に判断するとともに、軽視してきた文化に対しても、不当に貶めてとらえていることがないかを改めて検討しなければならない。良いか悪いかなどといった二面性で語るべきではないだろう。
自文化から異文化へ、その境界線を超えて入り込むことで理解をする
異文化を「理解」する急所は「境界の時間と空間」にある。異文化とは、境界の時間と空間を生きることを通して、象徴的に理解される場合が多い。(つまり、相対化して初めて異文化と自文化が見えてくる。ということは多々ある。)
常とは違った時間とか空間を意識して生活しないと、異文化は見えてこない。異文化を理解することは、自分の文化の殻から抜け出して別の文化の殻の中に入ることである。
そして、異文化を「体験」するということは、異質な時間と空間を体験することにほかならない。
このようにして異文化を理解することによって、事物を視る目が硬直せず、緊張しきった心が穏やかになり、豊になるだろう。
儀礼を見ることの重要性
儀礼には、その国の現代の状況や歴史、文化の様態があらわになる要素が多いため、儀礼が象徴するものは異文化理解へのカギである。
儀礼を見て、その儀礼を理解しようとしていくと、その社会のある構造が見えてくる。
先入観と偏見、ステレオタイプの危険性を理解しておく。
マスメディアはステレオタイプを増幅する作用を持ってきた。マスメディアの異文化理解と表現の仕方には注意を払った上で受容すべきである。
また一方で、ステレオタイプが生じることには、その印象を植え付けてしまう理由や要素が自国にも少なからずあるというのも事実である。もし、自分がその典型にあてはめられてしまったときには、その理由を探ることで双方の異文化理解へ一歩前進することができる。
もう一つ、メディアが短く報道する中には、説明するには長い、さまざまな時代背景や文化的背景が絡み合っていることを知らなくてはならない。早い情報のみに頼ってはならない。
リーチの文化理論
文化におけるコミュニケーションには三つの段階がある。
一、信号レベル
体温調節、危機回避、衣食住など、生物レベルでの段階、多くの人間がお互いに理解できる領域。
二、社会レベル
交通やマナーといった社会的習慣や取り決めの段階。学習によって理解できる領域。
三、象徴レベル
信仰や行動様式や価値観などの、文化的な中心部のこと。外部のものにとっては極めて理解するのが難しい領域。
異文化を理解していくにはさまざまなレベルがある、そしてこの三つが総体して異文化を形成している。これらが混ぜ合わされて、人々の言葉と行動に意味づけをしているのである。
三つ目の象徴レベルは、外の人間からははっきりと映らず、よくわからないため、非常に理解が困難な部分である。そしてこの三つ目の象徴レベルを理解することが、異文化を理解する上で大きな困難であると同時に、大きな課題となっている。
文化は混成している
文化というのは、純粋で純度100%なものだと解釈しがちである。しかし実際は多くの混合と混成がある。異文化と自文化の場合、多くの共通項と違う部分があるということを見ることが重要である。
また、現代の文化は特に混成が進んでいるが、この混成の度合いやあり方を見ることに文化の理解の糸口がある。
最後に、自文化を見つめなおす、ということも異文化の理解の大きな手掛かりとなるだろう。
著者の内容はこのようなものである。前もっていうが、要約のプロではないし、要約は大学受験の課題にもなるほどのものであることからわかる通り、必ずしもこれが著者の論点に準しているとは限らないので、実際に本書を読んでほしい。
すごいバカな話だが、中国に来たばかりの時、自分は中国人になれるかもしれない、とさえ思っている節があった。見た目としては同じアジア人だからいけるだろうと思っていた。しかし、それこそ、見た目が似ているなら同じようなものだろうといった、アジアと西欧を大きく分けたような浅はかさをぬぐい切れていない証拠だったと今では認めたい。実際、中国人の動作や思考、文化的な背景を見ていくうちに、日本と中国は大きく異なる文化を持つ「異文化」であり、完全に溶けきることはできない、日本人はやはり日本人なのだ、ということを知った。
日本人が日本にいる中国人に対してまだ十分な理解が無いのは、もしかしたらまだ日本のことをある意味でアジア人だと思っていて、日本人の常識をあてはめているからなんじゃないか。
それと、著者が途中途中に、中国語や中国文化に対する教育を日本でも行っての良いのではないだろうか、という意見は、私も思っていた部分が大きい。中国語は、英語を学習するときとはまた違った感触を得る。日本語の存在をより深く考えさせられる不思議な言語だと思う。
リーチの理論でいうと、私はまだ中国を理解できていない、外国語大学で中国人との接触はかなり少ない方だった、これはまだまだ課題だ。最も、本当に理解できるのは永遠にネイティブのみであろう、と私は思う。完全な理解ができる日は、来ないだろう、とさえ思う。その時には、自国日本に対する文化的理解を失っていると思う。だから私は、”日本人として”、異文化を理解していきたいと思う。
明石真の『体内時計のふしぎ』
明石真『体内時計のふしぎ』を読んだ。
自分は困るくらい朝型である、というか、早起き人間である。たとえ日中に寝不足になろうと朝は必ず早起きしてしまう。休日でも6:30には起きてしまう。最近めっぽう気温も初夏になってきて、日射時間も伸びてきて、目が覚めて時計を見ると5:30だということもある。さすがに支障をきたすのでその時は二度寝を意識的にするが、それもどうもうまく効かない。6:50頃にはしびれを切らして布団から起き上がる。一方夜は12:00を超えるともう気分が悪くなってくる。体全体が体調不良を訴え始めるので、寝ないわけにはいかない。この体内時計というのは自分の中ですごいう強固に働いているのだろう、いまいちど体内時計について考えるテーマとしてこの本を読んでみた。今回はこの本の内容を簡単にまとめて、最後に個人的な課題と感想を残しておこうと思う。
本書の基本的な内容は、「体内時計に逆らう現代人の生活により生じる様々な支障を理解する」といったところ。
現代病は、その多くは遺伝ではなく環境要因によるもの
現代病には「遺伝的要因」と「環境的要因」の二つにわけることができます。
遺伝の話をすると、生命は長い時間をかけて進化していきます。しかし、人間の生物的進化には非常に時間がかかり、遺伝子の構造は数百年程度では大きな変化は生じません。そのため、したがって、現代疾患の多くは、環境的要因に由来するでしょう。
人間を例外とせずあらゆる生物は、地球の一年、一か月、一日といった様々な周期に対応できるように、長い長い時間をかけてその環境に適応していきました。これまでの進化では長期的に適応していくことができました。しかし、ここ最近の社会はあまりに急激に変化しました。世の中は「24時間社会」となり、夜でもコンビニが営業しているだけでなく、インターネットが普及し、昼夜にかまわず携帯やパソコンを使用することもできます。この変化のスピードは、適応能力うんぬんでは追い付かないものとなっています。それによって今さまざまな疾患がおきています。このような、自然界の周期と相反する行動が現代病として、健康に多様な面から害を及ぼす原因として潜んでいることを知っておきたいところです。
時差ぼけは日常で起きている、平日と休日の睡眠差
日本から時差の多い場所に移るときに生じる「時差ぼけ」は日常でも起きています。平日と週末の時差ぼけです。平日は朝早く出勤し夜遅くに寝る、睡眠時間が足りないから週末は遅くまで起きて朝はゆっくり起きることで平日の睡眠負債を返上する。。。。
そして再び月曜日からは無理やり元の生活に戻そうとする。
皆さんもこのような生活に身に覚えがあるのではないでしょうか。
しかしこの生活は一種の「時差ぼけ」の症状を生みます。海外に行くことで時差ぼけを感じ、体調不良になるのと同じように、このような時差ぼけの症状が慢性的に続くと、現代病のリスクも高まっていく、ということです。
平日と休日の睡眠の差、すなわち睡眠負債は身体に大きな負担をかけます。しかし
この差はどんどん開いていて、2002年から2010年の八年間のみで平日の睡眠時間は30分以上短くなっているという研究結果もあります。
ブルーライト照明と正しい利用
この生活の変化の原因は間違いなく「24時間社会」、インターネットの深夜までに及ぶ利用などがあげられるでしょう。またさらに根本的な原因として、「照明」があります。最近の光には「ブルーライト」を含む蛍光灯のような質の明かりが増えてきました。太陽は日中は青い光を多く含んだ光で昼を照らし、夕焼けが赤いように、夕方にかけて赤い光の波長が優勢になり、夜には沈んで一日を終えます。しかし近年の照明によって夜間でもブルーライトを浴びることができるようになり、これが身体に影響を及ぼすようになっています。特に子供は眼球がまだ光の透過率が良いので、影響を受けやすいようです。
近年の照明には、家庭用の照明としてもブルーライトが使われています、特に蛍光灯が登場したころは、本当に光がまぶしかったものです。しかし最近主流のLED照明には色や照度を調整する性能があり、また光の質を調整することが可能になりました。これらをうまく使って、昼はふつうの蛍光灯、夜は夜間モードの機能をうまく利用することが必要です。
もともと、人間は日没後は光を利用しなかったのだから、このように調整することは身体によいといえるでしょう。
体内時計のかく乱により影響する疾患
本書では以下の現代病を引きおこすと記述しています。
【不眠、糖尿病、ガン、動脈硬化、うつ、認知症、生理不順、胎児への影響、流産、老化】
ここでは、いくつか興味深かった部分を抜粋します。
体内時計とガンの関係
皮膚がんの実験
マウスの皮膚に紫外線を当てて、皮膚がんのリスクを研究するもので、一方は午後四時、もう一方は午前四時に紫外線を当てて皮膚がんの発生頻度を比較します。すると、午前四時のマウスは二倍以上も皮膚がんになりやすいという結果になりました。
なぜなのか。
生物にはガンの原因となる細胞の異常活性を防ぐための修復能力が備わっています、しかしこの活性にも効率の良い修復のために一日のうちにリズムがあります。つまり、皮膚の場合、一日の紫外線を浴びて、夕方に修復能力をアップさせることでより効率の良い修復を行うことができるようになっていたのです。午前四時に紫外線をめいっぱい浴びるというのは体内のリズムと矛盾していたため、リスクが上がったのです。
これは皮膚だけのことでしょうか。
その他臓器も差異はありません。食事、運動、睡眠、すべてのリズムが調節された生物のからだでは、臓器も夜には休息に向かいます。この時に食事をとったりリズムの狂った生活を続けると、昼と同じことをしても、修復能力に差があり、臓器に大きな負担がかかることがわかります。こうして体内リズムのズレがガンと関係していくのです。
逆に、ガンの副作用を抑えるために、この体内時計の利用が有効であるという意見も出ています。
抗がん剤の治療では、正常の細胞をも破壊してしまいます。しかし、早朝はこのような正常な細胞の活動がまだ活発でないため、正常な細胞への負担は小さくなり、副作用が比較的抑えられる、というのです。これによって同じ量に対する身体への負担も軽減されるので抗がん剤の量を増やすこともできるといわれています。
体内時計とは、体内の活動を適正時間かつ効率的に行うために生まれたタイミング
恒常性をうまく機能させるために、そのタイミングを予想して活動するようになったことが体内時計の始まりだ。
また、寝ることで脳を休ませているように、臓器も休ませる必要がある。こうして臓器もリズムが生まれたのだ。
なるほど、コンビ二は雨の日には傘を売り、夏には熱中症予防の商品を売る。こんなに疾患を生むんなら、体内時計って必要ないのでは?と感じてくる。しかしコンビニも毎日全く同じものを売ればもちろん売り上げは非効率的だ。体内だって同じだ。抗体を効率よく活動させたり、臓器を効率よく休ませるために、体内時計はプログラミングされてきた。体内時計は必要なものなのだ。私自身もこのように考えた。
近年の夜更かしや活動がこのような身体のタイミングに反することで、人体に様々な疾患を及ぼす、ということがわかったと思う。
その他本筋にかかわらず本書で得た知識
体内の周期には23時間から26時間までの個人差がある。これは一般に言う朝型と夜型に関係している可能性がある。
平日と週末の睡眠差が大きいと肥満になりやすい。
白夜の環境下で暮らすシカには体内時計が存在しない
家族や他社とのコミュニケーションは体内時計を修正する作用があり、認知症予防にもつながる。
体内時計を利用した薬の服用方法で、新薬を制作するコストを必要とせず薬の効果を上げたり、副作用を抑えたりできる可能性がある。
個人的感想
要するに寝ろ。寝不足は万病のもとである、ということだ。夜の活動も万病のもとである。ということか。
実際私も思う。最近の大学生は23:00以降に寝て、10:00以降に起きる、これが当たり前になってきている。これでも生活はできるのだ、生活は。しかし多くの人は、この生活に当たり前になることで、この睡眠スタイルでは日中に軽度の寝不足の状態であって、本来はもっと体調が良い状態の自分が存在することを知らないでいる。
私はおかしなことに、基本的に何時に寝ても起床時間に大きな差がない、23:00に寝ても2:00に寝ても大体6:30くらいに覚めてしまう。だから、睡眠の質を上げるためには早く寝るという手段をとる、思い切って21:30に寝てみたことがある。すると次の日、授業がどんなにつまらなくても一度も寝なかったし、眠いとすら思わなかったのだ。これほどまでに普段の自分は寝ていなかったのか、と思う。現代人は22:00以降に寝るのが当たり前になってきている、さらに遅い時間まで夜更かしすることも普通だ。でも、これはここ数年の変化で起きた。赤信号をみんなで渡っている状態ともいえる。
イヤホンの耳への影響がまだこれから証明されていくといわれているように、睡眠による身体への影響はこれからわかってくることになるかもしれない。もしくは直接的な要因として明らかにされず、永遠に影の要因として潜み続ける可能性もある。
それと、もう一つ、照明の発明で今の時差ぼけが生じた、という話もあるけれど、時計というものが生まれて、日本が太陽の日の入り日の出にかかわらず標準時を決めたとこらからもうこの疾患の原因は始まってるんじゃないかとも思う。
とにかく、体内時計は多くの生活習慣病にかかわるということだ、この時代、縄文みたいな生活は不可能だけど、このことを心にとどめておくだけでも、自分の健康維持のヒントになるかもしれない